誠実に語る、ということ

2016-09-18 12:06:21 | 抽象的話題

 

答えを提示することは簡単である。単純にストーリーを作り込めばいいだけだからだ。しかしそのストーリーに乗っかりたいだけであるのなら、自分の見たいものしか見ない(そしてそれが止められない)という意味において、一体それは薬物中毒患者と何が違うのか。

カントのアンチノミーを思い起こしつつも、しかし今述べたような懐疑なくしては、ただの畜群と変わるところがないと私は思う。そのような立場からすると、先日も紹介したが、南直哉は極めて誠実な語り手の一人である。答えの出ない問いに、強引に答えを取って付けることは簡単である。答えの出ない問いを、忘却しきってしまうこともまた簡単である(ちなみに言っておくと、そのような問いに拘泥する己を周囲から特権化するような振る舞いは、矮小な選民思想でしかない)。しかし南直哉の語りは、おためごかしの理屈を元に「理路整然」と答えを出し切ることも、上手く忘却して日常を乗り切ることとも無縁である。答えを出すことの極めて困難な問いとどう折り合いをつけて生きていくか。言い換えれば、この世界の不条理や未規定性、あるいは(誤解を恐れずに言えば)それを「不条理」と思う限界だらけの自己とどう向き合っていくのか。彼の語りはそのような問いに貫かれていると思う。

また彼の語りは、どこからが「価値判断=宗教」の領域に入るのかについてクリアカットに彼の見解を示した上で、(教団の側にいるのに)それを真理ではなく選択だと言い切ってしまうところも感銘を受ける点の一つである(その理由は、論理的に追及する、あるいは「絶対」を探求するからこそ、突き詰めきれない領域と対峙せざるをえない、という経験をこの人もしているからこそ出てくる発言だと思うからだ)。このような態度は、仏教を真理そのものではなく真理を探求するための一つの「道」として捉えていることに由来するのではないかと思う。

今回は「葛城事件」という映画を見た後でもあったので、凶悪事件を起こす人間の自己・他者認識(あるいは承認)に関わる話も興味深いものであった(ぜひ多くの人に見てもらいたい作品だが、他者がそこにいるのに他者がいない語り、自罰としての凶悪犯罪など様々示唆的な描写が出てくる)。この人の著作そのものは読んだことがないので、今後それに触れてより一層の理解をしていければと思う。

 

以上のことを踏まえて、改めて次の文言を引用したい。

「かけがえのない命」。
そんなモノに救いを求めていても先には進めません。
あなたがいなくても、たいして困りません。
自分がいなくても、まったく困らないでしょう。
だからこそ、無くてもよい存在だからこそ、がんばるのだと思うのです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イミテーションゲーム5 | トップ | 民進党という名のゾンビ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

抽象的話題」カテゴリの最新記事