「アウトレイジ」シリーズを見るまで北野武映画DTで、「その男、凶暴につき」も「戦場のメリークリスマス」も見ていないゴルゴンですが、皆さまいかがお過ごしでせうか?今回は映画「首」を見たついでに、一部では北野映画最高傑作とも言われてるらしい「ソナチネ」を鑑賞してみやした。
結論。な、なんだこの強烈な作品は・・・最高、まさに最高じゃあないか😍!!というわけで、まあぶっ刺さりまくりでしたよと。
ポイントを一言でまとめれば、「異化効果によるコントラスト」なんだろうけど、それにしてもよくここまで野蛮だけど詩的、詩的だけど野蛮な作品を成立させたなと思う。
コントラストはあらゆる所に及んでいて、「青と赤」、「都市と田舎」、「平穏と緊張」、「緩慢と怒涛」などを挙げることができる。筋書そのものは(監督自身もインタビューで語っているように)ありふれたヤクザ抗争モノなんだけど、鮮烈な情景とそこに集中させるために刈り込まれたセリフ、そしてその情景の中で起こる唐突な死により、場面が目に焼き付いて離れなくなるのだ。
よくあるヤクザの抗争映画は、都市部のギラギラした緊張感の中で描かれ、アゲアゲのBFMの中で(?)そのアップテンポ感というか非日常感を楽しむ作りになっているように思うが(まさにアウトレイジ!)、本作はまさにそれと真逆の要素を共存させたことによって、抗争の凄惨さや暴力性がより強く浮き上がるような仕掛けになっていると思う(だからそれだけ印象に残る)。
ただ、凄いなと思うのが、今書いたようなことをただ図式的にやるのではなく、そのコントラストを徹底したことだ。つまり、謀略と暴力がはびこるヤクザの世界は、金銭や組織のしがらみなどで常に何かに追われるように動いている(そして主人公の村川=ビートたけしはそんな世界に疲れていると舎弟=寺島進にこぼす)。しかし、敵の襲撃から逃げてきた沖縄の家では、むしろやることがなくなってゴロゴロし、自分たちで娯楽を作り出そうと紙相撲をやってみたり、時にはフリスピーに興じたり、時には踊りの指南を受けたりする。
この時の姿はあまりにも間延びして、自堕落かつ楽しそうであるのだけど、このシーンはあえて台本をほとんど用意せず、暇の中に役者たちを追い込んでいったものらしい。つまり東京・抗争シーンとのコントラストを作り出すため、あえて「演じさせる」ことを避け、そうして出てきた佇まいが、村川一行のあの溶け合ったような姿だったということだ(寺島進演じる舎弟と勝村政信演じる中松組組員が、浜辺の家に来る前は後者がやたら東京の話題を持ち出して前者にすり寄ろうとするのに対し、浜辺の家では言葉少なでも通じ合っているように見える)。
では、そういったのどやかな生活にただ癒されるかと言うと、少なくとも私はそういう感じは全くしなかった。というのは、久石譲の音楽は不穏な繊細さと緊張感(典型はOP音楽)で物語全体を彩っており、かつ見ている側としても、そこでの逃亡生活は解決に何ら寄与していないということは容易に理解できるので、浜辺での遊びは来るべき悲劇をただ間延びさせているだけだという緊張感が常につきまとい、ゆえに雄大な自然は印象に残る一方で、それで単純に気持ちが安らぐなどということは決してなかったのである。
そして予感通りというか、のどかな世界に入り込んだ異物によって、逃亡生活は突如の、しかし必然的な終わりを迎える。そしてその後は、復讐のために物語が急速な勢いで駆動され、多くの死者を出しながらこの作品は幕を閉じるのである。
この世界を見た時に連想されるのは「生と死」であり、もっと言えば、死はあたかも突然来たように見える(見えた)けれども、始めからその結末は約束されており、それを一時忘れて生という「遊び」に我々は興じているに過ぎない、とも表現できるだろう。
そのような意味で、「生と死は隣にある陸続きの存在」であり、またそれゆえに「生きていることと死んでいることの間に大した差なんてない」という感覚を、この作品からは呼び覚まされるのではないだろうか(だからこそ、生への執着が弱まっている時にこの「ソナチネ」を見ると、その背中を押すような感覚が生まれる危険性を持った作品とも言える)。
というわけで「ソナチネ」を見て感じたことを述べてみた。図式的な理解に到ってスッキリ・納得して終わりではなく、こちらの日常感覚や死生観に浸食してくるという意味で、視聴者の世界に傷(scars)をつけずにはおかない魅力と危うさを備えた作品だと言えるのではないだろうか(もう一つ言っておけば、アウトレイジ1作目でもテーマとなった、ヤクザの抗争の論理・お題目のバカバカしさが別の形で提示されてもいるのだが)。
というわけで、次は「その男、凶暴につき」を鑑賞してみたいと思う。
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