AED、訴訟リスク、善きサマリア人の法

2023-12-22 11:54:23 | 生活
 
 
 
 
映画「ソナチネ」のレビューで生死の境界の曖昧さに触れたので、続きとして安楽死やトリアージの話を準備していたが、その前にもう少し結論が単純なテーマを取り上げてみたい。
 
 
さて、冒頭の動画ではAEDのやり方の説明に加え、男性が女性にAEDを行うことで、セクハラなどにより訴訟されるリスクがあるのではないか、という問題が取り上げられ、議論されている(そもそも「危機的状況になってもAEDされなくて良かった」という意見を持つ女性はどの程度の割合いるのかって話はあるが。ちなみに性暴力の告発については以前書いた記事のように考えている)。
 
 
中には、「人の命が危機的状況にさらされているのに、そんな馬鹿げたことを考えるなんてありえない」とか、「命の危険にさらされた人を目の前にして自分の保身のことを考えるのか」と呆れたり驚いたりする人がいるかもしれないが、これらの意見に賛同するかどうかはともかく、こういった意見が一定数出てくる背景(必然性)は理解しておいた方が議論を進める上で有益だろう。
 
 
それは何度なく述べてきた、「共通前提の崩壊と他者への不信・不安」である。成熟社会化したことで価値観が多様化・複雑化し、もはや暗黙の了解は通用しなくなってきている(私は「男は女に奢るべきか」という議論はなぜ不毛になるのか?という観点でこれを取り上げたりしたが、最近の著作に絞っても東浩紀の『訂正する力』、山口謡司の『じつは伝わっていない日本語大図鑑』など、幅広く言及されている現象である)。
 
 
その結果として、今まではある程度反応が予測できた相手が、どういう反応をするかわからない存在=リスクと化した。かかる状況では、そもそも「ウチ」と「ソト」で身内以外は皆風景というマインドが強かった日本人は特に、不安・不信ベースで人との関係性を考えざるをえなくなったのである(これが「同朋意識はないが、同調圧力はある」ということだ。ここに自己肯定感の低さも相まって、日本の幸福度の低さが生まれているのではないか。なお、先ほど東浩紀の『訂正する力』を挙げたが、そこでも述べらているように、不信ベースだから主張の訂正もできず、白を黒というような強弁をせざるをえなくなる。というのも、漬け込まれ、立場を失うことを恐れるからだ。これは何度か取り上げてきたゼロリスク信仰や、「自己責任論が生んだゼロリスク世代の未来像」などにも繋がる話である)。
 
 
ではこれは救急の素人だからそう考えるのであり、ある程度事情を把握していればそうならないかと言えば、そんな単純な問題ではない。例えば、飛行機などで乗客が急な体調の悪化を訴えた際に「お医者様はいらっしゃいませんか?」と聞かれるなんていかにもドラマなどにありそうな場面でもはやネタにすらされているが、このような場合に医師たちは正直に名乗りを上げて対応するリスクを感じるのだと言う。なぜなら、その人の病歴もよくわからず、検査器具などもまともにない状態で診断・処置をせねばならないからだが、それで回復に向かわなかった場合、最悪「助かる可能性もあったのに誤診で殺された」と訴訟されるリスクがゼロではないからだ。だったら、「始めからその呼びかけに応じないことがリスクヘッジとしては正しい」という判断が出てくるわけだ(要するに、プロでさえ躊躇する要因はあるんだよ、ということ)。
 
 
以上の理由で、他者に深く関わるのは大きなリスクを伴うという感覚が醸成されやすくなり、リスクは過剰に見積もられる。なるほど弁護士先生は「これまでそんな訴訟はなかった」と言う。しかしでは、「私がその第一号にならないという保証をどのような形であなたはしてくれるのですか?」というわけだ。
 
 
また、前述したように「人が命の危機に陥っているのに、自分の保身を優先するとは何事だ」と批判する意見を持つ人もいるだろう。おそらくリスクを懸念する人たちは言うのではないか。「なるほど、その心情は理解できるし、あなたご自身がやるのは大変結構なことである。ところで、そこまでやることを他者に推奨し、やらない場合に強く批判するのであれば、仮に訴訟などが起こって私の時間や費用が奪われたり、あるいは社会的信用が傷ついた場合には、その行為を半ば強制したあなた方は、もちろんそれを補填してくれるんですよね?できないのなら、黙ってもらってていいですか?」と。このように問われたら、一体どのように答えるつもりなのだろうか?と私は思う。
 
 
で、本来はここから話が始まるべきなのだが、動画では大変残念なことに「リスクを訴える者」「ゼロリスクを主張する者」の不毛な二項対立で終わっている。では、ここから具体的に何が必要かと言えば、社会の側が具体的なあるべき姿を法で示す、ということだ。このように表現するといかにも迂遠な話に思われるかもしれないが、これは随分昔からある概念で、かつこれを制定している国も実際に存在しているのだが、それは「善きサマリア人の法」である。
 
 
これは端的に言えば「災難や急病の人間を無償で善意に基づき救助した場合、誠実に対応したのであれば、たとえ失敗しても結果責任を問われない」というものであり、ある意味緊急避難などにも通じるものがあるが、こういった免責事項を定めていない状態で、社会の不透明化と分断が急速に進む中、「義を見てせざるは勇無きなり」とばかりに主張してみたところで、話は平行線であろう。
 
 
そしてこのように社会的意思を明確に規定した上で、それでもなお救助を拒否する人は、例えば臓器移植拒否のカードを持ち歩くのと同じように、自らの意思を明確にするよう促していくべきだろう(仮にそのカードを携帯しておらず、その上で望まぬAED行為がなされた場合、救助者は免責される、ということ)。
 
 
もちろん、法を制定さえすれば全てが解決する、というのは愚の骨頂である。しかしこの問題に関して、AEDを真剣に社会的潮流として普及することを目指すならば、「空気」に頼るような徳治主義的発想は言語道断であり、社会的意思を明確に示す上でも法整備は不可欠、ということを強調しておきたい。
 
 
以上。

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