
ゲームレビュー復活第一弾として、今回は「終末の過ごし方」を取り上げたい。
これを書いた2005年当時はブログの書き始めでほぼ徒手空拳の状態だったため、原文はかなり抑えた書き方になっている。「嘲笑の淵源」や「君が望む永遠:『ヘタレ』と自己認識」などの記事でメタ言説志向や前提への無自覚さについて何度か言及した今ではそのレビューの方向性がよりわかりやすくなっていると思う。
この作品を最初にプレイしたのは2000年のことだが、当時パトロンや彼の家で見たいくつかのサイトでは「駄ゲー」と評価されていたのを覚えている。単に読解力のないアホなんだろう(失礼)と思っていたら、後にジャンノ・ダルク氏も「(登場人物は)もっと行動しようよ」といった感想を言っていたことから、もう少し原因を真剣に考えるようになった。
どうしてそこまで確信をもって否定するのかって?
まず言っておくと、そういう感想が出てくること自体はわかるのだ。何せ「終末」=世界の終わりだと言うのに、登場人物たちは謎を解こうとしたり戦ったりすることは全くなく、むしろ日常の延長かのように過ごしてはるのでwしかしそれでも、私はそういった感想を躊躇なく切り捨てる。理由は簡単。そういうプレイヤーたちが是とするであろう行動をする(ex.暴動を起こす)人物たちが、ラジオの放送という形で意図的かつ徹底的に遠景として囲い込まれてることに全く言及していないからだ。つまり、あえて終末的行動(?)をしない人たちにスポットを当てていることを完全に見過ごしているのである(作中の終末は、規模が大きすぎて作中人物にもどこか実感が湧きにくいという点に注意を喚起したい)。だからたとえば、「行動する人物もヒロインに入れることによって対比が成立し、プレイヤーにもよく伝わるのではないか?」であるとか、「プレイヤーは神の視点でもって終末の絶対性を知っているから、非日常的行動をとらない作中人物の姿に納得するにすぎない」などという批判はまだ理解できるし、非常に実りある議論ができるようにも思う。しかし、上記のような評価は、自分の趣味を(おそらくそれと知らず)ただ垂れ流した感想にすぎないのだ(補助線を引くために例を出しておけば、ガンに際しては誰もがいかなる場合においても延命治療をせねばならないのだろうか?)。
ではなぜそのようなことが起こるのか?
もちろん読み能力の低さはあるだろうが、先のメタ言説の観点で言えば、(a)危機には立ち向かうものだというアルマゲドン的行動・思考様式への埋没、もっと本質的なレベルまで突っ込めば、(b)自由意思信仰にあると思われる(後者は昨日の「もやしもん~自由になることを~」などに繋がる)。これらは「偶然性、再帰的思考、快―不快」でも言及したが、プレイヤーたちがこのような自らの思考の前提に対して無識な結果、終末の演出・構造を見落としてしまったと言うことができるだろう(前掲の「『ヘタレ』と自己認識」を参照。偶然性に関しては、「ぼくらの」の原作、灰羽連盟、「果てしなく青いこの空の下で」などが参考になる)。
エロゲーに限らず、二次元関連の言説というものはしばしば「ネタ」と位置付けられ、「わかって(あえて)やってる」のだとされる。とするなら自らの前提に自覚的(再帰的)であって当然だが、にもかかわらずこの体たらくはどうだろう?このことから、彼らの「わかってやってる」という言葉は上辺だけのものにすぎないと容易に理解される。だから私は「エロゲーにもエロゲーマーにも期待できない」と書いたし、二次創作の可能性についても楽観をしないのである。
その他、ブログを始めたきっかけについて、「ひぐらしのなく頃に」の公式掲示板へ書き込みを始めたのが原因とずっと前に書いたが、実際には「火薬」で、君望や終末、沙耶の唄のレビューを書きためていたことが「引き金」になったというのが正しい。また終末のシナリオについては画像として掲載もしている緑のものが一番好きだ。CROSS†CHANNELの主人公風に言えば、「逃避は誰でもするが、必死に逃避しなければならないのは悲劇だ」というところか。
とまあ散々っぱら能書きを垂れたところで、ようやく覚書である(なんて読者に優しくない記事だろうかw)。すでに息切れしてる方はまた別の機会に読むことをおすすめする。
<概要>
主人公は普通の高校生である。終末宣言の混乱により両親とは別離し、交通手段は途絶、通信手段も壊滅に近い状態で終末の原因もわからない。そんな彼が学校に通い続けながら最後の一週間で何ができるか、何をするのか、そして何が残るのか…その様を淡々と、しかしどこか優しく描く。
<状況設定>
終末まで一週間。主人公は行く意味の無くなった学校に通い続ける。通信・交通は半壊or全壊状態だが、食糧難の様子はない。また伝染病などといった話も出てこない。恐らく「完全な終末的状況」を回避するための設定だろう。これによって、生存競争と言った状況は(少なくとも作中には)出てこないし、主人公のように終末の実感が湧かずにそれまでのような日常を続けている人間がいてもあまり不自然さがない(もちろん彼ら自身は理性で自分たちの行動[例えば登校]の無意味さを知っているのではあるが)。
なお、前述のように終末の理由はわからない。これは登場人物たちの知識の限界を示すとともに、「危機を救うための行動」を起こさない、起こせない必然性を与えている。ただ、そうなった一番の理由は、「設定することにあまり意味が無いから」だろう。このゲームにおいては終末的状況という舞台設定とそこでの「過ごし方」こそが重要なのであり、状況の解明は普通の高校生たる主人公にとって非現実的(あるいは不可能)であり、蛇足だからだ。
<演出的特徴>
◎モノローグシーン以外は主人公も第三者的に描写される。また、主人公知裕を中心としながらも、サブ主人公のような重久、多弘の「過ごし方」も描かれる。
◎演劇的演出あり。しかしほんとの序盤だけなのでどういう意図で入れたかは不明。「客観的に眺める」という視点を強調しているのかもしれない。
◎ラジオのDJという形で、より広い範囲の終末状況を描写する。この中で暴動を起こす人々や自警団との衝突と言った行動する「過ごし方」が紹介され、結果知裕たちの過ごし方を浮き彫りにする効果をあげている。
<本作のテーマ・主張>
本作は、その名のとおり「終末」においてどのように「過ごす」(=生きる)のかをテーマとしている。こういった終末モノは、主人公が危機に立ち向かって世界を救うというのが定番であるが、本作では終末的状況になじめない(どうすればいいのか戸惑いを覚えている)人間を主人公に据えている事に特徴がある。本来なら、展開の都合上ここから一念発起でもして行動を起こすところだろうが、この作品の主人公の場合それはない。あくまで「日常的」な生活を最後まで続けるのである。普通ならばこのように話が大きく展開しないのは物語としてマイナス要因であろう。しかしあえて、本作は非常事態の中の(あたかも終末などないような)「日常的」生活を描いているのである(これは行動や暴動を起こす人々が、ラジオ放送という形によりあくまで背景として扱われていることから明らかである)。
このような理解のもとにゲームを進めると、途中でふと気付くことがある。それは「終末的状況に立ち向かい危機を救う」という一般的な物語類型が、あくまで一つの「終末の過ごし方」に過ぎない、ということだ。当たり前のことではあるが、人々は「救われるから行動を起こす」のではなく「救われるかどうかわからないが行動を起こす」のである。それがわかった時、初めて本作の主人公たちの行動の意味や価値が理解できるようになるだろう。つまり、終末という状況の中で、今まですれ違っていた幼馴染みと理解しあえたり、昔の彼女とよりを戻したりして、終末を二人で迎えるという「過ごし方」も、ラジオに出てくる「暴動を起こす人々」の「過ごし方」と同じくらいあるいはそれ以上に価値あるものなのかもしれない、ということである。終末の最後の瞬間まで、救いを信じて(あるいは不安のために)争いの中に身を投じ続けるのと、すれ違っていた人と心通い合って死ぬのはどちらが「幸せ」だろうか?(私は後者の「過ごし方」にも充分に意味があると思う。)ただし本作は「過ごし方」の違いに優劣を付けようとしているわけではない。おそらくは、「終末的状況に立ち向かい危機を救う」という物語類型が横行して、等身大の「過ごし方」が軽視される中で、実は「争いの中に身をおかず、ただ近くにいた人と心を通い合わせようとすることは必ずしも『逃げ』ではなく、充分に意味・価値のある『過ごし方』だ」ということを伝えたかったのだと思う。
なお、本作に「滅びの美学」といった評価をするのは誤りだと思う。
知裕は重久に終末へ居合わせたことの不運を嘆いており、決して状況を肯定したり陶酔したりはしていない。また、重久は『終末が救いと感じるなら、それは(終末による)逃げだ』と言っている。彼らは静かに死ぬことに美しさを感じて選び取っているわけではなく、彼らなりの制約の中で静かな「過ごし方」にいたっているのだ。そこには「滅び」に対する憧憬や美しい死へのロマンチシズムといったものは無いと言える。
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