『日本人無宗教説』を土台として:データに基づかない議論は、いかにして不毛になるのか

2024-06-25 12:11:05 | 宗教分析

先日『日本人無宗教説』という書籍を紹介し、これは日本人の宗教意識を考えていく上で土台とすべき先行研究であると述べた。

 

ここでは、一例として日本人の宗教意識や無宗教について分析する上で、私が何度も批判してきた視点を取り上げたい。それは、「本当の宗教」「本当の仏教徒」「本当のキリスト教徒」といった、実際には客観的に定義しえないものに則りつつ、日本人は宗教であるとか無いとかを論じるスタンスだ。なぜそれらが問題を多く含んでいる、というか正確には不毛な議論にしか呼び起こさないかと言うと、客観的に定義しえない以上、つまるところ「私の宗教論」「私の日本人宗教論」の域を出ないからである(もちろん、そこまでわかった上で、単に一種のエッセイとして書く分には全く問題ないのだが)。

 

その構造を簡単に提示してみると例えば次のような具合だ。

主張者:A(①)

「日本人は無宗教だと自認する人が大半である。しかし、葬式を仏教式で行うし、死者を弔う時には手を合わせる。つまり日本人は正しくは仏教徒なのだ」

反論者:B(②)

「確かに日本人の多くが、仏教に基づく行為を行う人が今も多いのは事実です。ところで疑問なのですが、なぜそのような行為を多くの人がそれなりの頻度で目にしたり自ら行うにもかかわらず、自分を仏教徒だと認識しないのでしょうか?それにはどのような歴史的経緯があるのでしょうか?」

主張者:A(③)

「それは・・・」

反論者:B(④)

「その背景や構造を明らかにすることなしに、ただ現状をこちらの解釈で仏教徒だと定義づけることに何の学術的意味があるのでしょうか?私には全く理解ができません」

 

という具合である。少なくとも論者がエッセイとして書くことを意図していたり、はたまた異端審問のような行為でも画策していない限りは、結局「本当の~」なる定義は日本人の宗教意識を解き明かす目的にはほとんど無効と言ってよい。なお、新興宗教の怪しげな言説に反論する、といった目的ならある程度の有効な手段であることも付言しておきたい(また、③のフェーズで日本語の「宗教」という言葉に問題があるだのといった「思い付き」が語られることも少なくないのだが、これが統計データから見ると根拠となりえるか極めて怪しい点については後述する)。

 

この点について、本書P255~p256では以下のような記述となる。

研究者には、読者から最後に「でも、本当のところはどうなのか?日本人はやっぱり無宗教なのか?それとも?」という質問が出たらどうするかという課題が残っている。問題は、価値評価を含んだ「日本人には宗教がない」という最初の一撃以来、研究者本人は客観的なつもりでも、自ら「宗教」を定義し、「日本人は…」と言おうとすると、欠落説-充足説-独自宗教説の無限ループに引き込まれてしまうことにある。

ではそのループから抜け出すにはどうするか。一つには、自らは宗教を定義せず、社会の中でどのように宗教・無宗教の切り分けがなされているか、そこでは何が基準とされ、結局何を言うために議論が展開されているのかを分析することに徹するやり方がある。本書はそのような研究の一例となっている。

 

「本当のところはどうなのか?」つまり「結局日本人は無宗教なのかそうじゃないのか教えてくれ」と読者から「わかりやすい結論」を求められたならば、「そのような定義はできないので、日本人の多くは無宗教と自認している、としか言えません」というのが最も誠実な解答だろう。疑問に応えてほしいという大衆の欲求に乗ってそれらしい答えを垂れ流すならば、それは陰謀論と同様の病理に陥ることになる、と警告しておきたい(陰謀論の構造やそれが求められる背景についても、『シオン賢者の議定書』など何度となく取り上げてきたが、近日中にこれも記事を上げる予定である)。

 

というわけで、どのような根拠薄弱な決めつけが横行してきたかの先行事例の集成となっている本書は、日本人の宗教意識を考える上で極めて重要である点を今一度強調しておきたい。というのも、それらの集積から導き出されるパースペクティブは、日本宗教論のみならず、日本人論がどのような問題を抱えてきたかまで明らかにするからである。

 

とはいえ、本書に問題点がない訳ではもちろんない。その最たる例は、先の引用部分(太字)に続けて、「もう一つの方法は、宗教の概念そのものを見直すことである」と書いてある部分だろう。そこに言及するのであれば、本書でも何度か触れられている『データブック 現代日本人の宗教 増補改訂版』の宗教意識に関する統計データに触れるべきだったと思うからだ(以下が前掲書からの引用)。

 

 

 

 

というのもそこでは、戦後日本の宗教的帰属意識の調査が様々紹介されており、例えば1950年の迷信調査協議会なら「個人の宗教」で自分が何らかの宗教を信じていると述べたのが合計45.5%、「無宗教」が25.4%、「無記入」が30.1%となっている。ここで無記入が3割もいることに首を傾げる向きもあるだろうが、一方で質問が「家の宗教」の事になると、何らかの宗教を答えたのが84.2%に及び、無宗教は3.3%、無記入は12.5%に減少している(この「無記入」の変化については最後の【補足】で触れる)。

 

ここから立てられる仮説は様々あるが、少なくとも言えるのは、「『宗教』という近代以降に新しく作られた言葉は日本人の信仰形態に合わず、ゆえにその帰属意識を掬い上げられなかった結果として、大半の日本人は無宗教という自認・解答になるのだ」といった説は成り立たないということだ。というのも、もし仮にその言葉が正しいなら、「なぜ明治維新から80年以上経った戦後の段階でもなお、半数近くの人間が自らの宗教として特定宗教を挙げたのか?」そして「なぜ8割以上の人が家の宗教を具体的に答えたのか?」という反論がたちどころに出てくるからだ。

 

つまり、「宗教という外来の言葉に問題がある」という発想もまた、統計データに基づく実態の意識に鑑みれば、「充足説」や「独自宗教説」を誤った形で補完する言説となる可能性が非常に高い、と注意を喚起しておきたい。

 

以上。

 

 

【補足】

「個人の宗教」と「家の宗教」に対する返答の落差から窺い知れるのは、戦後間もなくの時点で、宗教的帰属意識が形式化した状態である。つまり、「家では仏教を信仰しているけど、自分は仏教を信仰していない」という感覚の人間が49%もおり、ここから葬式仏教などの「習慣化」を想起することは容易だろう。また、この49%の差異が無宗教・無記入の合計値(55.5%)とかなり近似している点も注目したい点だ。

 

なお、「個人の宗教」として30.1%が無記入というのは、調査の不備や警戒心の表れか?といった疑いを持たせるが、「家の宗教」という質問項目になると無記入が12.5%と半分以下に減ることを踏まえれば、むしろ「何と答えていいのかわからない=無宗教とはっきり答えることも難しい」という人の割合が、それなりにいたと考えるべきではないだろうか(ちなみにアンケート調査に対し体裁を気にして本音を答えないというのは、アメリカ大統領選挙で隠れトランプ支持者を事前調査で掬い上げられなかったという問題などでも指摘されている。その事前調査については、本人Aではなく隣人Bに対して、Aとの日常会話から、その人が支持するであろう大統領候補をBに聞いた場合、Aが答えたアンケート結果はヒラリーなどだったにもかかわらず、隣人にはトランプ支持だと話していた、という事例が少なからず見られた、とされる)。

 

ともあれ、こうした宗教的帰属意識の剥落・遊離が観察される状態で、高度経済成長期で見られた集団就職・都市化・核家族化といった現象により伝統共同体と切り離される人間が増えていけば、仏教の信仰に個人・家で落差のある49%が、あるいは個人の信仰で無記入だった30.1%が、どのような意識・返答になっていくかは想像に難くないだろう(まさに「去る者は日々に疎し」の世界だ)。

 

オウム事件が起こったのは1990年代だが、その信者たちの発言の中には、既存の宗教が「空気」のようなものだったという趣旨のものが見られる。これだけ聞けば、バブル期特有の時代の風潮(唯物主義・拝金主義)ぐらいに思えるかもしれないが、前述の調査結果からすると、そのような形式化した帰属意識の上で、それがさらに希薄化・消滅する社会変動が起こった結果だと感じさせるものではないだろうか。

 

なお、このようにして遊離した(宗教的)帰属意識が、そのまま全て無宗教へとつながったわけではない。というのも、例えば地方から出てきた都市部の低所得者層=共同体から切り離されて根無し草となった人々に対して広がったのが、今でも新興宗教で最大規模の信者数を要する創価学会だったのだから。とはいえ、中間層については、終身雇用といった形で会社共同体(→仲人による見合い企業墓など、様々なライフイベントすら含まれる)により包摂され、その(宗教的)帰属意識の空隙が、経済成長も相まって、さしたる問題とならなかった可能性を指摘しておきたい(だから逆に言えば、経済成長とフリーターを称揚する言説の中で、行き場を失った人々が新興宗教に吸収されていきオウム事件にいたったという見方も可能である)。


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