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体系化の欲望を客体化・相対化するという点ではヨブ記や因果応報の話を取り上げた前回のフラグメントと同じだが、それにしてもなぜ2018年の12月というタイミングはこういうフラグメントが多かったのかと疑問に思い過去のログを見返したら、「騎馬で芸術沼に突撃してみた」とか「トルコ東部の思い出」など画像加工ツールを使うのがマイブームになっていたことがわかった。おそらくそこから芸術における流行りすたりだのを考えた結果、真理の追究やその相対化(脱構築)といった問題意識が浮かび上がり、こういった覚書が諸々生まれたのだと思われる。
そう考えると、自己犠牲について触れた最後の覚書はおそらく芸術などにおける「人間性の探求」を意識したものであり、つまり利己を超えた行為こそ人間性の発露のように思われるが、果たしてそれはどこまで「人間性」、つまり人間に特権的なものと言えるのか、あるいはそれは、ある意味で快楽主義のレンジが変化しただけなのではないか?といった話である(これが前回で言えばグレッグ・イーガンやEuphoriaにつながる)。
このテーマは非人間、あるいは非人間と人間の交流を通じて描かれることが多いが(『BEASTARS』や「undertale」やなどはその好例だろう)、あるいは「Detroit」がそうであったように、今後はAIの「進化」と人間の「劣化」が進む中で、ますますこの話題は様々な形で問い直されていくのではないか(つい先日プレイした「ドキドキ文芸部」は、ある意味その境界に立つような作品でもあったので、時間があれば近いうちにレビューを書いてみたいと思う)。
しかしおそらく、「多様性の肯定という理念」と「現実的な合意不可能性」という前提に立った時に、その探究は「人間のあるべき姿」を提示すること、もっと正確に言えばそれへの合意形成を決して可能にはしない=せいぜい万華鏡的現実を模写するだけで、その分断を止める働きは決してしないだろうとも思うのである。
2018/12/25
〈体系化する欲望の気付き→高校のそれ〉
プラトン。ティマイオス。クレタ文明はエジプト文明の辺境。ギリシアも同じ。
たとえば文字の起源。アルファベットはフェニキア文字、その前はエラム文字、その前は象形文字。
ハイデッガー。技術への問い。現代技術は自然に挑戦する。自然を計算可能なものとして見習わしている。
デカルトは自然を計算可能なものとみなす。スピノザとホイヘンスはそれを記述する。
体系化の問題点。体系化しえないもの。今ではランダムウォーク理論、量子論、非線形科学、複雑系。
近代の成果を否定するのは愚か。一方でそれを盲信して安住するのも愚か。
複雑な世界で人は知性を発達させるよりむしろ、引きこもって狭い世界に耽溺し、外を敵視しがち。何かしら棹さす仕組みないと無理ゲー。自己陶冶による個人の育成。ごく一部では上手くいくだろうね。しかし、民主主義というシステムを採る以上、大多数の はどうはする?
宗教の代わりに理性と科学によってこの世界の法則を解き明かし、体系化しようとしたのが近代。デカルトやダランベール。哲学と数学。神学の婢と言われた哲学がそれに取って代わっていく。
体系化・構造化の欲望への挑戦→ダダイズム、オートマティスム、シュールレアリスム
〈新大久保のU、コスプレ〉
男の性欲はコントロールできないとしばしば言われるのに、「女は感情的な生き物だ」などと、あたかも男が理性的な生き物であるかのように語られる意味がわからない。その喩えに従うなら、女性は情動に従う生き物で、男性は本能に突き動かされる猿、とでも表現するのが妥当ではないか?
〈無題〉
人は快楽で動く→しかし自己犠牲があるではないか?
シュガーラッシュにも出てくるし自分にとって大変興味深いテーマではある。
だけど3つ反論があるな。
①やりたくないけど強制される。ブラック企業と「やりがいの搾取」。
②「利己的行動や損得感情で動くのが当たり前」だからこそ、逆説的に自己犠牲が称揚されるのでは?
③最後に、自分を犠牲にする快楽で自己犠牲をやっている要素はないのか?
「死ぬほどやりたくないけど、それでもやる」なんてやるヤツんじゃなければ、結局それも快楽主義のレンジが違うだけなんじゃないかい?
いやそれも、規律や義務感で自己を押さえつけてるだけやな。内発性に突き動かされての行動は?
超越的。この話はまた別のところで。『邪宗門』とかに絡めて。
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