毒親、モラハラ、ユニコーン:あるいは他者への暴力的コントロール欲について

2024-03-07 12:52:39 | 生活
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
他者を直接的にも間接的にも「所有」することはできない。正確に言えば、かつて奴隷=人間の形をした「物」が世界に溢れていた時、そのような現象は当たり前に存在していたが、少なくとも近代に生み出された人権の概念=共生の作法はそれを否定しているのである。
 
 
しかし、公共的領域でそれが否定されたとしても、毒親、モラハラ、ユニコーン(処女厨)など様々な形で、他者への暴力的なコントロール欲とその発露は今でも広く存在する。すなわち「あなたは~でなければならない」と言いながら、他人を精神的・身体的に抑圧し、時にはその尊厳・生命をすら破壊してしまうのである。
 
 
私はこの暴力性について思う時、例えばユニコーンを「純粋さの顕れ」のように評するのは極めて馬鹿げた行為だと考える。ただ、念のために言っておくが、「コントロール欲や願望を一切持つな」という話をしているのではない。「何で今日に限って雨が降るんだよ・・・」といった発想に象徴されるように、コントロール不可能性の明らかな天候にでさえ、あたかも自分の都合が反映されるかのように思い込んでしまうのだから、人間に対してそのような発想を持つのは、ある意味当然のことだろう。
 
 
しかし一方で、そのような自己の信条・願望と、他者や社会の座標が完全に一致することは決してありえない。自己の生活サイクルや学業や仕事の出来などでもそうなのだから、自らと切り離された他者など推して知るべしだろう。それを自覚した上で、その信条・願望がどう暴力的にならないように収めるかが「共生の作法」であり、また社会性と呼ばれるものである。
 
 
しかしながら、毒親やユニコーンと呼ばれる存在は、そういった抑止装置が破損・破壊された状態である。例えば毒親は、「あなたのためにやっている」と言いつつ、思い通りにならない相手を執拗に詰め、自分の思うがままに動かそうとする。そしてユニコーンも、処女崇拝を「ピュア」などと言って肯定する向きもあるが、実際のところそれは「条件付き承認」の最たるものであり、何なら女性を「動産」の一つとして認識していた時代の発想と変わるところがない。そしてそのような自己と他者の懸隔を認知できず、ひたすら願望を暴走させているという意味で、私はユニコーンやそれを肯定するようなスタンスを「心の底からIしてる」と批判したのである(ユニコーンのナイーブさを理解できない向きは毒親のグロテスクさを他山の石とすればよいし、逆に毒親のグロテスクさを理解できない向きはユニコーンの観察をしてみるとよい)。
 
 
この話は、「『ロリータ』と『1984年』:人間を支配する残酷さの発露について」「『置きゲー』がワイを形成した」(=交換可能性の話)などの記事と繋がるが、ただ難しいのは、交換可能性に基づいた「己の欲せざるところ他人に施すことなかれ」という発想は、虐待の連鎖などを止める上ではほとんど無力(少なくともその発想程度でどうにかなるものではない)であるという点などには注意が必要かと思われるが、少なくとも他者へのコントロール欲とその独善性・暴力性という点では毒親とユニコーンのスタンスは地続きであり、それを肯定することは社会的害悪だと述べつつ、この稿を終えたい。

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