AI音声、サンプリング、著作権:あるいは現代芸術、大量生産、初音ミクについて

2025-02-27 12:19:28 | AI

 

 

 

 

 

 

以前の記事で、AIの画像生成やAI生成動画の精度が日進月歩であること、そして人間が求めているものはごく少数を除いて「~げなもの」でしかないので、人間が作ったのかAIが作ったものかの違いにこだわるのは趣味嗜好の問題となり、人が作成したものは全体のワンノブゼムに化していくだろう、と述べた。

 

とはいえ、これはAIが意識を変えたというのはやや不正確な見方であろう。というのも、ベンヤミンやボードリアールを引いたように、そもそも現代芸術や現代の消費環境というものは、コピーやサンプリング、大量生産というものが意識的に行われてきたわけで、それはポスター的な(=町に溢れている様式の)アールヌーヴォーの表現(ミュシャはその著名な例)、あるいは芸術と日常が融合したアールデコ、あるいは日本で言えば柳宗悦を代表とする民藝運動を想起することができる(消費材という意味では1920年代に生まれたフォード式と大量生産がわかりやすい)。

 

そしてそれを特に意識して表現したのがマリリン・モンローの写真をコピーしてそれを芸術であると主張したアンディ・ウォーホルらだった訳だが、もはや21世紀ではそのような表現方法が狙った批評性が成り立つ前提も崩壊しつつあり、言い換えれば「~げなもの」はすでに世の中に溢れかえっていて、ほとんどの人間はそれにどっぷり浸かっているため、もはやわざわざその参照元に立ち返って表現様式の歴史や表現技法の詳細を体系的に理解しようとする人など少数派だと言って差し支えないだろう(これはシューベルトの「魔王」を淫夢ネタと結びつけた動画でも触れたが、そもそもロマン主義の表現理念を教わらない人間たちにとって、ナショナリズムや近代化という文脈も関係無ければ、ハイドンやヴェートーベンが試みた新興階級に受け入れられるクラシックの大衆化を意識した表現も意識されないため、その音楽にインパクトこそあってもせいぜいが「ネタ」の一つにしかならず、ゆえにそれが文脈自由にいじられるのは必然だと言える)。

 

AI生成の「作品」がこの世に爆速的に普及しつつあるのは、すでにこのようなサンプリングとコピーが極めてありふれている表現・消費環境が前提にあることを踏まえる必要があるし、またそれを理解していれば、今観察される現象は何ら驚くべきことではないと言える。

 

以上を踏まえると、AI生成物について「芸術」という視点から批判する主張がなされても、せいぜい「別にあなたの言いたいことをわかるし、その趣味嗜好を否定はしないけど、その基準を他人に強制されてもねえ・・・」という反応にならざるをえない必然性を理解しておく必要がある(そしてそうである以上、繰り返しになるが、AIの生産力と技術進化によって日々質の向上したAI生成物が世に出続け、一方常に限界を抱える人間による作品はどんどんその割合を減らしていくことになるため、その相対的な地位低下を免れることは難しいだろう)。

 

とはいえその上で、これまで人の手で「芸術」と呼ばれるものが生み出されてきたことを尊重し、そのような活動がこれからも絶えないようにしていくための最低限の環境整備は必要であるし、過渡期であることも踏まえて法整備や調整の努力は必要ではないか、という主張は確かにその通りだろう。例えばトレースがこれだけ問題化(いわゆるトレパク問題)されている以上、AI学習をそれと完全に切り離すというのは道理が通らないし、それを無断で商業利用するとなればなおさらである。

 

 

 

 

よって、AI生成のものは「芸術」と呼べるかといった神学論争(に見せかけた実態は趣味嗜好の主張)は横に置いて、あくまで権利関係の調整という点を軸にガイドラインの整備などを進めていくべきだと思われる。

 

という訳で前置きが長くなったが、それを別の観点で見ると、冒頭に掲載したAI音声の話となる。そもそも人の顔をAIで模倣して表現するディープフェイクは数年前から問題視されてきたが、音声についてもいよいよここまで来たか、という感がある(少し文脈は違うが、アラン・チューリングの伝記を扱った「イミテーション・ゲーム」という作品が思い出される)。当人の様相については肖像権というものがあるので比較的異議申し立てがしやすいが、声紋についてはそこまで権利化が進んでおらず、それもあって著名な声優を始めとする有志たちが連名で動画を出すに到った、ということのようである。

 

まずは「声を勝手に商品として利用される」状況を訴え、問題の所在を周知してもらうという狙いの動画だが、コメントの中には「声に関しては権利が認められていない(だからあなたたちに権利を主張する資格はない)」といったものも散見され、意図を理解できないのか、するつもりがないのかと呆れるが、要するにインターネットの登場やドローンの登場で新しい法律を考える必要が出てきたように、AI音声についてもそれを真剣に整備していく段階にきている、という訴えであり、それを現行法の範囲だけで評価するのは愚昧の極みと言える。

 

あくまで「作品」という領域で考えれば、例えば音楽もすでにコード進行など含めサンプリングの世界となっているように、AIでないことにいつまで特異性・特権性が認められ続けるかは非常に危うい状況であるように思われる。これまた今に始まった話ではなく、例えば1960年代にはクラシック的要素とロックを融合させたプログレッシブロックが一世を風靡したが、よりわかりやすい例としては、2007年には初音ミクが誕生し、さらにその後様々なVOICEROIDが発表され、このブログでも何度となく取り上げている「ゆっくり解説」など多様な場面で使用されていることはここで指摘するまでもないだろう。要するに、それほど「複製芸術」的なるものが溢れていて、受容環境(受容者側の意識)も当然それに大きく影響されているという前提状況があり、そこにAI生成という「黒船」がやってきたと捉える必要があるということだ。

 

かかる状況を踏まえると、AI音声だから「作品」として云々、表現として云々という主張は、もはや単なる趣味嗜好の問題であり、ましてそれを元に異なる意見の人間を誹謗中傷するのは愚の骨頂と言える(好きな物を大事にしたいと考え、それを応援するために私財を投じるといった行為はもちろん個人の自由である)。

 

よって、あくまで重要なのは、AI生成という新しくて大きな波に対応するための社会システムがまだ整っていないため、急ぎそれに向けて動く必要があるし、また法的なルールが整備されないうちは、ガイドラインなどにて調整を図ることを促進する動きを強めることだろう。

 

逆にそのような行為ではなく、苛立ちに流されて法に抵触するような他者攻撃を始めるのは、自らの立場を危うくする利敵行為であるという意味でも、厳に慎む必要があると述べつつこの稿を終えたい。


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