「共有できていないという事実」を共有できていない、これを分断という

2021-10-14 11:53:53 | 生活

 

昨日はAdoの「うっせえわ」が歌っているものとそれが多くの人の心を動かした背景について、「ノーマライゼーションの地獄とそれへの苛立ちの吐露」だと述べた。

 

それを踏まえてこの動画を見ると、「ノーマライゼーション」の詳細は

1.本当は「普通」でも何でもないものを、「普通」であるかのように思わされること

2.その「普通」に合わせるよう外的に有形無形の圧力がかけられるだけでなく、それが内面化され自発的に合わせるようになっていくこと

3.それへの違和感を表明するのは「我がまま」・「自慢」等と捉えられ、忌み嫌われること

4.「普通」という思い込みによって全員が同じスタートラインであるかのような錯覚が醸成されるとともに、上手くいかない人間は「自己責任」の一言で雑に切り捨てられること

といった形で具体化できるだろう。

 

この背景はコミュニティや学校の「同調圧力」、そして「一億総中流化」的な幻想から本当の意味で脱却しきれていないことと考えられるが、端的に言えば「実態としては多様化が進んでいるにもかかわらず、ノーマルと思う基準についてはアップデートされておらず、しかもそのノーマルが様々な形で抑圧的に機能しているため、人々はフラストレーションや生きづらさを抱えることになる」と表現できるだろう(やや皮肉めいて表現すれば、「知らないことを知っていると思い込むことほど深刻な間違いはない」という話だ)。そしてこれが、「うっせえわ」で歌われているものの背景であり、またそれがそれなりの数の人身に訴えかける一因と考えられる。

 

というわけで前回の記事とのつながりは以上で説明終了だが、実のところこの放送は無意識のうちに前提となっている部分を慎重に言語化しないと、不毛な議論になりかねないため、少しここで私見を述べてみたいと思う(良心的に見れば、落合のゲストに対する疑問の投げかけとそれへの応答は、その前提を確認して議論するための必要な作業と言えるし、やや辛辣に言えば、このレベルから確認がスタートすること自体、「共有できていないこと」が共有できていない=分断の象徴そのものとみなすことも可能だろう)。

 

一:
日本においては、容貌・言語・食習慣といった外形的特徴がそこまで極端に違わないため(背景には宗教的禁忌などの類似性も関連)、「同じであるはずだ」という共同幻想を比較的抱きやすい。

二:
しかし、そもそも都市部とそうでない場所では様々なものへのアクセサビリティが大きく異なる。例えば教育で言うなら、学校が多いのは当然都市部だし、それは選択肢(進学校やスポーツの強い学校etc...)の多寡に直結する。そして塾や予備校が一定数存在するのは、人口の集中している都市部であることは言うまでもない。なお、「どの環境でも勉強しようと思えばやれる」というのは確率論や蓋然性を無視した乱暴な見解であり、それこそ「孟母三遷」などを元にした温故知新の視点すらないと言える(対話する相手とある程度関係性の履歴があった上で、相手がそれを「言い訳」にして自己の失敗を正当化している場合にそれを諫める物言いとしてこのような発言をするのならまだしも、社会政策というグロスのレベルを議論するのにはあまりにもお粗末な発想と言わざるをえない)。

三:
そのような違いは、家庭環境や学校環境の違いとなり、自分の周囲の「当たり前」が醸成され、かつそれが同調圧力によって外面的・内面的に埋め込まれ、それがキャリアイメージや家族イメージなどに多大な影響を与える。仮にそこへ違和感をもったとしても、特に少数派であればそもそも表明すること自体が難しく、表明したとしても前述のような形で抑圧されすりつぶされることもしばしばである(これは都市部が様々な人の流入によって形成されている=そもそも多様になりやすいことと対照的な現象と言える。なお、これは日本に限った話ではなくアメリカでは沿岸部[≒都市部]と内陸部[≒非都市部]の差異に置き換えることができる。また、こういった環境がどう住人たちの行動に影響を与えるかは、イギリスの労働者階級を調査した古典『ハマータウンの野郎ども』などを参照)。

四:
内面的にも多様化してきているが、それが旧来のイメージのままになっている。例えば30年前であれば、AmazonやYou Tubeはもちろんネットもなくケーブルテレビすらないので、特に子供は消費できるコンテンツが極めて限られており、そうであるがゆえに共通の文化や話題(共通前提)が持ちやすく、同じであるという「共同幻想」を抱いていてもそこまで深刻な祖語は今に比べると生じにくかった(もちろん、この頃からそういうメインストリームになじめず、無理やり話題を合わせていた人もいただろう)。しかし今や、その気になれば地球の反対側の外国語による歌や動画などでも好きな時に見ることができ、書籍の多くが電子化されてきているので昔のマンガや最近流行しているマンガを日本のどこにいても容易に目にすることができたりする(例えば東京と地方で話題になるものの一つは、ジャンプやマガジンの発売日の違いであるし、また地方だと「そもそもそのアニメ放送されてなかったよ!」といった昔語りで出てくることも少なくない)。というわけですでに個々の消費するコンテンツも嗜好も多様化しているのだが、それにもかかわらず「ぼんやりと同じ」であるかのような幻想が続いている。しかしそれが幻想に過ぎないことは、例えばネットで自分と意見が合わない者を「外国人」呼ばわりしたり、陰謀論をそのまま信じ込んだりする人間が少なからずいて、お互い歩み寄りを模索するでもなく石を投げ合っている様を見れば火を見るより明らかなのだが(まあそれでも「対面すればある程度普通に会話が成立する」ところがある意味おそろしいところでもあるのだが→これは「夜と霧」に関連して書いたことともつながる)。

 

これを踏まえてさらに言えば、

(A)共通前提はすでになくなった

(B)しかしそれにもかかわらず、ぼんやりと「同じだ」という幻想が続いている(だから同調圧力にも「悪意」すらない)

(C)もちろん全く同一だとは思っていないが、突き詰めて考えたこともデータに注意を払ったこともないため、肝心の場面になると雑な自己責任論が幅を利かせる(これは動画にもあるように、政策を考える官僚ですら大同小異のレベル)

(D)(C)にも関連するが、「確率論」や「蓋然性」の観念が欠落している。要するにどういう環境にあるからどういう現象は起こりやすい・起こりにくい、という環境要因をよく考えようとしていない。だから何か問題を発信しても、「そういう環境でも成功した人はいる」というお決まりのセリフが返ってきて、本人の努力不足の問題に帰結させられ、結果として格差や問題は放置される(というか「問題」として共有すらされない)。

(E)そもそも「機会の平等」と「結果の平等」すらよく理解してない人が結構いそう。動画のコメント欄からの印象含むが、格差の話をする時に、「格差をゼロにするべきだ」と短絡する向きが少なくない。自由放任主義と格差ゼロ(結果の平等)の二項対立的思考ほど不毛なものはない。生まれ持った身体能力なども考慮に入れればわかりやすいが、格差をゼロにすることなどそもそも不可能であるし、そもそもこの動画内容は格差をゼロにすべきなどという話をしていない。そうではなく、格差が不可視化された(あるいはそれに近い)状態で現実を無視して同調圧力と自己責任論が跋扈していることが問題なのである。

(F)「自己責任」が思考停止の免罪符になっていないか?これから少子高齢化の日本で人材を育てることは極めて重要なわけだが、そのような未来像と対策にあたって、地方の人々に(保護者や共同体の視野狭窄も相まって)そもそも選択肢が見えないし、見えていたとしてもその選択がしづらい状況は自由放任するのが「国益」に叶うものかどうか、どこまで真剣に吟味しているのか極めて疑問である。

という具合に現状を評価することができるのではないだろうか。

 

以上ここまであれこれ述べてきたが、ここまででようやく「前提」である、という点に注意する必要がある。もちろん、これが100%完全な現状分析とは思わないが、そもそも「現状がよくわかっていないから大雑把な議論になる」・「同じだと思い込んでいるだけでもはやバラバラである」・「そしてそのことが共有できていないという意味でも分断されている」ことを認識するレベルから始めないと、公共的なことを語っているようで実は己の経験則(だけ)に基づいた信条語りをしているだけにしかならず、ゆえにまともに議論が成立しない、という状況であるのはそれなりに妥当な認識だと考えている。ちなみにこの話は、動画にも出演している松岡亮二の教育格差に関する鼎談でも触れたことがあるので、データ云々の話を詳しく知りたい方は、書籍と合わせてそちらも参照されたい。

 

以上。

 

※補足

今回扱った話題はこれまでのブログ記事と実は様々関係している。たとえば以下の3つ。

 

α:教育格差の問題→「ただよび」のような映像授業や類似する取り組みを応援する理由

少なくとも、高校生や大学入試希望者(大検や再受検者など)にとっての「機会の平等」や、地域の教育の質向上に資する可能性を持っているため。もちろん、「これで教育格差がゼロになる」とか「全員これで勉強をするようになる」などと夢想するのは馬鹿げているが、そうではなくて、現状としては少なくとも質の高いオルタナティブ(別の選択肢)が存在することが重要という話である。

これは単なる理想論ではなく、コロナ禍で対面授業が難しくなった結果、既存の映像授業(例えばスタディサプリ)をサポートツールとして導入する高校は増えている。よって、これを奇貨として全国に広げていけば、教育格差の縮小に多少は貢献するのではないか、と考えているのである(そもそも、ライブ型の講義形式で高校教師が授業をするスタイルが生徒にとって善かどうかすら自明ではないことも注意を喚起したい。一部はその要素を残すとしても、残りは映像授業とし、教師の仕事は宿題のチェックやカウンセリング、あるいはキャリアコンサルタント[これは本当はアウトソーシングした方がよい]として変化していくべきなのではないか?)。

 

β:なぜ「共感」の称揚は危険なのか?そして「以心伝心」はなぜ馬鹿げているか。

前述のごとく、「同じように見えているだけで、実態はすでに多様化している」ことを腹の底から理解していない人間が多すぎるため。そのような状況で「共感が重要」などと言っても、単に「わかり合い」という名の「空気」の読み合い=抑圧地獄・忍耐地獄を促進するだけで、利益より害が圧倒的に大きいと考える。

共感を称揚して有益なのは、「違うように見えるけれども、よくよく背景まで調べた上でその選択肢の中でどうその人間が考え・感じるかを考えると、その行動や思考・感情の有り様に深く納得がいく」という状況であって、そこには極めて理性的・思考的な営為が必要とされる。

そのような前提を経ずに共感が重要だとするのは、単にノーマライゼーションの地獄を肯定し、排除と分断を促進する結果しか生み出さない、と私は考えている(要するに「他人の感情などどうでもいい」という「サイコパス」のような話をしているのではなく、今述べたような構造を理解せずに共感の話をしても、「善意で他人を抑圧する人間を量産するだけ」ってことを理解してないでしょ?と指摘しているのである)。

 

γ:日本人の「無宗教」を考察していて思うこと

このテーマを考察してきて非常に有益だったと思うことの一つは、「それらしいことを言っている人たちも、しばしばただの思い付きであって、他国との比較や地域性を踏まえて深く考察などしていないし、そもそも自分たちのことを真剣にリフレクションしようと思っていない」という事実に気づけたことだと思う。

例えば多神教的土壌が無宗教の観念につながっているという話は、インドや韓国を始めとしたアジア諸国の状況を無視しているし、またアメリカ的物質至上主義が原因と言いながら、当該のアメリカはむしろ非常に宗教的な国のままであるのに、どうして日本はそうではなくなっているのか、という視点は全くのところ欠落している。そうした上で、「日本はキリスト教が中心の欧米とは異なっている」とか、「欧米的な宗教観で日本を論じるのは間違っている」といった日本特殊論がはびこるのである(これを私は「脱亜入欧的オリエンタリズム」と呼んでいる)。

以上要するに、多少日本のことやその歴史に興味を持っている人たちでさえ、「自分たちのことを何もわかっていないのに、わかっていると思い込んでいる」様がその見解から透けて見えたのであり、こういう理解からすれば、例えば地方と東京の格差について、極めて曖昧模糊とした印象は持っているものの、それを真剣に吟味したことはなく、しかしそれにもかかわらずイメージだけでわかった気になっているという状態はさもありなんと思えた次第だ。

 

他にも、多様性と分断(あるいはそこでの絆)については、中村敦彦の動画『レズ風俗で働くわたしが、他人の人生に本気でぶつかってきた話』のような本を取り上げてきたし、あるいは相模原事件や生活保護に対する評価についても記事を書いてきた。そういったものへの知識・理解も今回取り上げた分断の正しい認知=社会の複雑性についての認識につながる・・・など話題はつきないが、とりあえず「自分が知らないことが多すぎる、ということすら理解していない人間が多すぎる」のではないかと述べつつ、この稿を終えることとしたい。


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