Ado「うっせえわ」に見る、「ノーマライゼーションの地獄」と苛立ちの吐露

2021-10-13 17:20:00 | 音楽関係

 

自分の中でVtuberエロス三銃士と言えば、「癒月ちょこ」、「西園寺メアリ」、そしてこの「Pavolia Reine」だと思っているが、それにしてもレイ姐さんの日本語うめえなあ・・・これで英語も流暢だし、改めてホロライブID組のスペックの高さを再認識させられるぜ(五か国語いけるイオフィ、日本語の流暢さやコミュニケーションがもはや全く日本人と区別がつかないアーニャはその筆頭だが、日本語がそれほど流暢でなかったオリーも最初から比べると格段に上達しており、その向上心の高さも目を見張るものがある)。

 

ところで、冒頭に紹介した歌の原曲はこちらである。

 

 

感情の奔流を静と動の変化で見事に表現する圧倒的歌唱力、耳に残る一つ一つのフレーズ・・・映像とのマッチングも合わせて、これほど強烈な印象を残す歌もなかなかないだろう。その中毒性の高さから考えても、1.8億回再生されているのは何ら不思議ではないと感じさせる歌である。

 

これに関して、自分にとって興味深かったのは「それなりにアンチもいる」という点(動画の評価でもGoodが175万に対しBadは7.4万であり、まあ175:7.4と置きかえれば割合は少ないのだけど)。もちろん、再生回数からしても多くの人に聞かれているだろうし、曲調や歌詞内容からしても「耳障りのいいBGM」にはならないという点で、そういう反応をする人が一定いるのはよく理解できる。

 

しかし一方で、管見の限りではそのことについて言語化できている人がまず見当たらない点が印象的だ。つまり、「なぜこの歌がこれほどに支持を集めているのか」も「なぜ自分(たち)はこの歌に不快感・嫌悪感を覚えるのか」も考えようとすることなく、ただ確実に「嫌いだ」・「下品だ」といった評価は明確に発信しているのである(一応ブログとかYahooニュースのコメントとかもそれなりに見たが、概ねこんな感じ。言語化しようと努力しているのも見られるが、大抵上手くいってない)。

 

好き・嫌いはもちろん個人の自由だとしても、この歌が表現しようとしているものの一端が何なのか、そしてそれがなぜ人の心を捉えているのかを考えるのはそれなりに有益だし、また極めてわかりやすいとも思うので、以下述べてみたい。

 

結論から先に言ってしまえば、その本質は「ノーマライゼーションの地獄と、それへのフラストレーションの発露」だろう(ピンとこない人もいると思うので、次回取り上げる落合陽一の動画を先にリンクを貼っておく)。あまりにも単純な結論に驚かれるかもしれないが、単純で普遍性を持つからこそ、多くの人の支持を得るものである。

 

先に述べた要因によって心の中にドロドロとわだかまったフラストレーション、あるいは明確に輪郭をつかむことすら難しい微細な違和感の数々は、言語化したり体系的に表現したりするのが困難だ。そのような澱のごとく堆積した、不定形の感情をわかりやすく言語化し、感情をのせて力強く歌い上げたからこそ、多くの人間が評価していると考えてよいだろう。

 

そのような視点で歌詞を見れば、より見通しは明確になってくる。例えば、冒頭の

ちっちゃな頃から優等生 気づいたら大人になっていた ナイフのような思考回路 持ち合わせるはずもなく でも遊び足りない 何か足りない 困っちまうこれは誰かのせい あてもなく混乱するエイデイ

のあたり。これをチェッカーズの「ギザギザハートの子守唄」(1983)や尾崎豊の「15の夜」(発売は1983)で歌われた(昭和的?)反抗と比べてみれば、その対照性は明らかなわけだが、興味深いのは

1.当時チェッカーズや尾崎の歌に熱狂していた人々・世代は、この歌をどう評価しているのか?

2.ノイズ排除を正義として育てられ「反抗期がない」とも言われる昨今の若い世代のあり方をよく反映している

というところだろうか。例えば1については、もし仮に「うっせえわ」に反発し、それを評価する人々も見下す人間が、昔は尾崎らの歌に熱狂していたのだとしたら、「忘却の恐ろしさはかくのごとし」と言うほかあるまい。

 

次に、サビ前の転調部分を見てみよう。

1番

最新の流行は当然の把握 経済の動向は通勤時チェック 

純情な精神で入社しワーク 社会人じゃ当然のルールです

2番

酒が空いたグラスあればすぐに注ぎなさい

皆がつまみ易いように串外しなさい

会計や注文は先陣を切る

不文律最低限のマナーです

私は一社会人として、一管理職として、思い当たる節しかない部分ではあるが(例えば「最新の流行は当然の把握」は自分にとって興味がなくても、顧客と打ち解けるために有効な知識だ、とかねw)、ここを「凡庸」と見る向きもあるようだ。

 

なるほどこれを「凡庸」とみなすのは(実際ありふれているわけだし)妥当な評価だと思うが、それをこの歌の価値を否定する材料に用いるなら、それは完全な誤りだと言わざるをえない。というのも、この部分はいわゆる「世間」から善意で浴びせられる抑圧の言葉の数々であり、それに対して「ハァ? うっせえわ!」という展開なのだから、否定されるべきものとして「凡庸」であるとともに、聞き手にとって普遍性を持ったフレーズでなければならないのは当然のことと言えるだろう。

 

以上いくつかのフレーズについて言及してみたが、総じていえば、「思いやり地獄」・「忍耐地獄」たる日本社会とそれへの反発を表象する魂の唄、とでも表現することができるのではないだろうか。これこそ、この歌が多くの人から聴かれ、評価される理由であろう。

 

そしてこの状況を図らずも証明したのが、先日起こった品川の広告にまつわる「炎上」事件だと私は考えている。これは品川駅の広告に「今日の仕事は、楽しみですか」という文言がデカデカと掲載される中、構内を歩く人々の姿が切り抜かれ、それに対し「ディストピア」だの「うるせー仕事おもんないわ」だのといった趣旨の反応があって広告が取り下げられたという出来事だ。こう聞くと「品川の通勤者でさえ、こういった広告に反発してしまうくらいストレスを溜めている」という話に思えるが、どうもそう単純なことではないらしく、私にとって興味深かったのは、この記事で扱われた実際の広告の掲出状況と反応への考察である。

 

端的に言えば、構内での広告はせいぜい1秒程度で、この広告がずっと掲出されていたわけではなく、むしろこれに注目した人が一体どれくらいいたのか疑問ということだ(もちろんイラっとした人がいる可能性はある)。つまり、この広告を実見した人々よりもむしろ、切り抜かれたあの文言に苛立ちを覚えた人々が、特に周辺状況を調べるわけでもなく、その不快感をそのまま表出した、という出来事であるらしい。

 

そもそもあの広告にそこまで反発する必要があるのか私には疑問だが(いわゆる「見なければいいだけ」理論がここにも適用できる)、それを一気に公的な場で発言せざるをえない程度にはフラストレーションが溜まっているということであろう。つまり、「それだけ仕事がつらい」とか「抑圧にうんざりしている」という分析ができるわけだが、そうやって「当事者」でもない人間から表出されたものが、また別の抑圧を生み出してどんどん社会を委縮させていく構図を改めて目の当たりにした思いだった(これは例えば災害時の「自粛厨」にもつながるものと考える)。

 

今述べた「今日の仕事は、楽しみですか」という文言は1番の「最新の流行は~」的な仕事に前向きに取り組むべし(取り組めてる?という圧)というメッセージ・抑圧とのアナロジーで考えることは比較的容易で、ゆえにそこへの感情的・反射的反発は、今の日本社会を見る限りそれなりの一般性を持っていて、「うっせえわ」が広範な支持を得る要因の一つを傍証している、と言えるのではないだろうか。

 

以上。

 

 

※補足

ちなみに、この歌に反発する人や、この歌を支持する人間に嫌悪感を持つ人の精神性が理解できないとは全く思わない。例えば1番のサビ前部分についても自分のケースで述べたように実際仕事に必要とされるスタンスだし、2番についても会社の飲み会のような「プライベートでない空間で、いかに不快な状況を作らないようにするか」という工夫の元で生まれた行動なので、それを頭ごなしに否定されたような歌に感情的反発を覚えることはあるだろう(まあだからこそ「善意でで言いたくなる」わけだが)。

 

これはどういう風にどこまで掘り下げるか難しい問題なのだが、差し当たっては朝井リョウの『正欲』という作品で、主人公の一人である検事のスタンスがどのように見えるか・感じるかをじっくり噛みしめながら読んでみることをお勧めしたい(ある種、それくらい根が深い問題だということ)。この人物の言動や行動を見ても、100%この人が正しくて一体何が問題なのか理解できないのであれば、それこそ「一切合切凡庸なあなたじゃわからないかもね」の言葉にそのまま当てはまるし、そういうスタンスこそが、善意によってリスクヘッジ厨もノーマライゼーションの地獄も生み出しているのではないだろうか、と述べておきたい(まあ言うて、この検事はまだ「マシ」な人物なんだけどね。だからこそ、人はこの検事のようなスタンスに容易になりうるのだが→『夜と霧』で述べた交換可能性の話につながる)。

 

そしてもう一つ。この歌によって「自分こそ正しい。周りはゴチャゴチャ口を出すな」と考えるような聞き手がおいて、それを批判的に見るのであれば、それはある程度妥当性があると考える(もちろんどういう楽しみ方をするかは自由だが、この曲をそういう風にしか狭く聞き取れない前提が何であるかは、よく考えてみた方がよいだろう)。

 

先に述べたような解釈が成り立たない理由として最もわかりやすいのは、最後の場面で歌い手=Adoの額に照準が当たっているシーンだろう。これはつまり、「自分もまた誰かの標的」であることを指し、それは即ち「自分もまた誰かの抑圧者や攻撃者であること」を指していると考えられる(これは先に述べた品川の広告の件ともつながる。また、その意味で「あたしも大概だけど、どうだっていいぜ問題はナシ」という文言を単なる開き直りと見るのには問題があろう。「深淵を覗く時、深淵もまた汝を覗いている」のである)。

 

この点を見落とすと、単に「できてる自分とバカな周囲」という勘違いをする視聴者が出てきかねない点は確かに注意を要する。しかしそのことをもって、この歌自体がそのような類のものであると評価するのは愚の骨頂である、と述べつつこの稿を終えたい。


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