白金ノエルの話→Adoの「うっせえわ」とノーマライゼーション→格差をそもそも正確に認識できていないという分断・・・という具合に展開してきた。
これが前に話したゲーム関連×2→Vtuber関連×2→歌→小説という流れの一環で、こちらは数か月前には予定が決まっていたのだけど、ゲーム関連の方がどうも完成に画竜点睛を欠くということ、そしてちょうど品川広告の案件がニュースになっていたことを踏まえて、Vtuber関連と歌関する記事を切り離して掲載した次第。だから白金ノエルの記事はいきなりエロスがどうだのおねいさんがどうだの(笑)という話が出てくるが、これは前に用意していたのがエロゲーと「年上好き」の話題だったからであるw
なお、最後の「小説」は「うっせえわ」の記事の中でも言及した朝井リョウの『正欲』で、これもノーマライゼーションや分断の話であり、かつ承認や絆の話でもあるのだが、あまりにいろいろな思考と感情が交錯した結果、どういう方向性で書けばよいかスタンスが決まらず数か月が経過した、という状況(いっそレビューA・レビューB・レビューCといった具合にして全て出し切ってしまおうか、などとも思っていたりする)。
とまあ軽く背景を説明したところで前回の記事について触れておこう。「分断に気づかないという分断」は、例えて言うなら「自分の状態をよく理解してないのに、『自分の身体のことは自分が一番わかっている』ぐらいに思い込んでいる人間」であり、そこから「自分の状態を正しく理解できていないのに、ただ『病状が悪化している』と不安だけ訴えても、有効な治療法なんてあるわけがない」とも言えるように思う(もっと言えば、元々現状維持を美徳とする傾向が強いうえに、今のような先行き不透明な状態ではより不安ベース=リスクヘッジ重視で動くため、有効な治療法が合理的でもそれを採用する方向にいかない)。
(正負両面で)正しく&厳しく現状認識ができていない→だからポテンシャルも生かせない→どんどん状況がひっ迫する中で問題がより鮮明になってくる→問題が明確になる頃には、解決に向けて動けるだけの体力が残っていない(かつ、不安で旧来の仕組みに相変わらずしがみつく人々もいれば、あるいは極端に過激な方向に振り切る人々もいて、社会はよりカオスになる)→とはいえ別に社会が終わるわけでもなく、どんどんジリ貧の中で生きることを強いられる・・・という具合に移行していく可能性が高いと考えられる。
これも元々予定していた記事の一つだが、結婚や出産にまつわる状況が劇的に改善する見通しは今のところ全くないので、人口動態という比較的正確に読める数値の変化によって少子高齢化はこれからもどんどん進むし、人手不足をAIなどで代替する動きが遅々として進まなければ、それはもうただの停滞であり、下手をすれば先祖返りにすらなるかもしれない(それを踏まえて、問題が大きくなる部分に手当てをするのならまだOK。「清貧」とか言ってただ忍耐すべしとするのはアホ)。まあそれでもある程度の生活水準は維持されるだろうけど、あるいはそういう恵まれた環境というのが、人々の危機意識を低いままにしているのかもしれないね。
こういう見解に対して、よく日本の可能性として技術力云々が持ち出されることも多いが、それだけあっても無意味で、どう生かすかが重要なんではないだろうか?例えば、「クールジャパン」と持て囃されたアニメーションについては、確かに大きなポテンシャルはある。しかし、それを支えるCGスタッフなどが過酷な環境・収入状況であるのはよく知られている通りで、その安く使える人々を引き抜いて近いレベルのコンテンツが海外でも作れるなら、それは日本が成長するという話にはならないし(iPhoneの製品を途上国の工場で安く作っているのと同じ構造)、そういう「交流」の中で技術移転が進めば、時間の経過に伴って海外でゼロベースから作成することも可能になるかもしれない(まあそれでも、同じ作業量で日本人の方が安いなら、スタッフとしては日本人を使うという発想になる可能性は十分あるが)。こうして、「高い技術」があろうが、日本の経済的地盤沈下によってそれが海外に流出するなら、それは日本が成長する可能性とはならない、ということである(だから、バカの一つ覚えみたいに「技術力」「技術力」言ってるのもどうなんだろうという話)。
もちろんこれはただの未来予測なので良い方に外れる可能性はあるし、あるいは逆に「EV車の大規模生産へのシフトで日本の産業が雇用を含め大きな打撃を受けるなど痛みを伴う変化が生じている中、南海トラフ地震が起こって急速に事態は悪化し、失われた40年→墜落の10年になる」といった可能性だってありうる(そもそもコロナ禍だって、一体どれほどの人間がこんな事態を想定したかって話よ)。その意味で、さっき自分が述べた話についても最悪の事態を想定してるとは思っていないし、よってそれが悲観的ともあまり考えてはいない。
まあ差し当たって、今の日本の状況は、少なくとも色々な環境で活躍できる人にとってはどんどん価値が下がってきているので(人のことなど放っておいて自己陶冶でもしてればよいのに、他人が自分の関係者だと妄想しがちなのか、やたら足を引っ張りたがる人間が多いのもマイナス)、そういう若い人は早く外の世界に出ておいた方がいいのはいつも言っている通りだし、前回の動画でのゲストもそうするつもりのようだったので、有能な人のこういう動きは加速していくんじゃないかな、と思う次第である(その上で日本に戻りたいというのならそれは自由だし、実際海外生活の中では今まで自明と思っていた日本の価値を感じる場面もあるだろう。しかし、日本しか知らないために既述のような共同幻想の中で囚われたままでいるのは悲劇だと思う)。
とまあ取り留めもなく書いてみたが、しばらくこの手の話題はお休みにして、また機会があれば時間をかけてしっかりまとめてみたいと思う。
ほいでは。
※余談
例えば、前回掲載した動画では東京の「普通」は別に「普通」でも何でもないという話が出てくるが、それを格差という観点で具体的に数字で言えば、東大生の親の平均世帯年収は1000万弱あり、かつ60%は世帯年収が950万円以上というデータもあり、それは東大合格者に占める首都圏の私立一貫校生の割合の高さとも連動していると言ってよいだろう(年収がある程度なければ、私立の中高一貫校には通わせられないから)。こういうデータを理解した上で、「本人の自助努力が重要だ」という類の自己責任論が語られているのか、はなはだ疑問である(それこそ私の言う蓋然性や確率論の軽視というヤツだ。ちなみに、こういう例を出したときに、「自分は知っている」とただ言う人は、「共有できていないことを共有できていない」人間の典型である。問題は、「じゃあそれってどの程度の人に共有されてるんですかね?」という話なのである)。
もちろん、これについても様々な問題が関係している。
1:アイビーリーグとかを考えれば、そんな「格差」は当たり前の話。そもそも平等幻想が強すぎることが問題
2:こういった状況は、都立高の受験システムの変化によって生じた部分がある(自然選択の結果ではなく、行政のミス)
3:そりゃあ「親ガチャ」という言葉は出てきて当たり前。とはいえ、その言葉で現状を嘆いてどうかなるわけではないのも事実。
などなど。
まあこれについては、答えではなくて「考えるための然るべき情報ルートを提示する」のが環境整備として最低限取り組むべきことじゃないかと思うが、そういった話は長くなるのでまた別の機会に。
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