「真面目な不勉強家」であり、「知識がないから検証できない」のである、と。なるほど、これはかなり的を射てる感があるね。
さらにもう少し踏み込むと、「真面目な不勉強家」を突き動かす背景には、「不安」や「被害者意識」というのが強くあるのではないだろうか。ここで例えば魔女狩りやホロコーストなどを思い起こすことができるが、例えばナチズムを分析したフロムはその支持層として「没落中間層」の存在を指摘している。彼・彼女らは、一定の地位があったのにそれを失ったことで、「こんなはずではないかった」と自負心と現実とのギャップに苦しみ、その理由付けを強く求める層とも言えるだろう(ちなみに日本の全体主義の構造を検証した丸山真男は、その主要な支持母体に「亜インテリ」という言葉を当てている。このカテゴリーがフロムのそれと完全に重なる訳ではないが、その精神的土壌や教養・検証という面での振る舞い方を考える上で、非常に示唆的な表現と言えるのではないか)。
これは、その上の層であれば、そこまで経済的・精神的不安に突き動かされない=極端な主張に流される心的な土壌が形成されておらず、さらに上流階級またはアッパーミドルであれば知識人と呼ばれる人たちの割合も多く、それゆえ知識に基づく論理的反駁で極端な主張を拒絶しやすい状況にもあったと考えれば、それほど難しい話ではない(もちろん、ハイデガーやカール・シュミットのような人物はいたし、いわゆる「背後の一突き論」にコミットしていたのは前述のような層だけでない点には注意を要するが)。
加えて言えば、中間層よりも下、すなわち労働者階級を主とする集団であれば、世界恐慌に伴う困難・不安の受け皿に共産主義が存在した(実際ナチスを脅かしうる勢力は共産党であり、議事堂放火事件などにより強制排除された)、という事情を考えれば、これまた不思議な話ではないと言えるだろう。
この状況をあえて図式的に表現すれば、「プロテスタンティズムという名の勤勉さ」に基づいて資産・家族を形成してきた人々が(ただし「教養」と呼ばれるものはさして身につけていない)、あるイベントによってそれらを失い、不安と絶望に駆られているところに、「わかりやすい答え」を外部から与えられ、まさにこれだと飛びついた、ということである(この「勤勉さ」の対立軸として、ホイジンガの「遊び」やラッセルの『怠惰への讃歌』を参照するのも有益だろう)。このように考えれば、前者の要素は「真面目」であり、後者の要素を「不勉強家」として表現したのは、言いえて妙だなと感じた次第。
まあ一つ言っておくなら、当時から100年近く経った今ではネットが発達しているので、その気になればクロスチェックは当時より格段にやりやすくなっているはずなのに、AIのアナリティクスなどもあり、むしろそういう事を調べれば同系統の話ばかりがどんどん出てくるため、検証どころかかえって「単なる再強化」が行われるというのが、「エコーチェンバー」や「チェリーピッキング」といった言葉で表される今日的状況なのだが。
で、今回なぜこんな話を書いたのかと言うと、亀田製菓とその社長の発言が炎上し、一部不買運動まで起きている件についてのダイアモンドオンラインの分析記事も(陰謀論でこそないが)全く同系統の話だなあと思ったからだ。
詳細は本文を読んでもらえればわかるのでここでは省くとして、重要なのは当該の社長の発言が「移民を受け入れるべき」という内容ではない、という点である。
ここで亀田製菓の社長は「海外からの人材受け入れ」という表現をしているわけだが、その前に「移民」というテロップを被せてあたかもその後の発言がそれに関するものであるかのように誘導しているのは、インタビューを実施・編集したAFP通信である。これに関するダイアモンドオンラインの窪田順生の表現を引用すれば以下のようになる。
「日本は変わらなければいけないと思います。もちろんバックグラウンドは変えられませんし(日本での)自分たちのバックグラウンドを誇りに思います。ただ日本にとっては柔軟性を持って海外から人材を受け入れることが極めて重要になるでしょう」
この発言と「移民受け入れ」がまったく異なることは言うまでもない。例えば今年3月、岸田政権は「特定技能」外国人の受け入れ枠の上限をこれまでの2倍超となる82万人に設定、新たに自動車運送業、鉄道など4分野を追加した。これは日本政府としては「海外から人材を受け入れる」ということに過ぎず、「移民受け入れ」ではないというスタンスだ。
40年前から日本で生活して日本国籍を有しているラジュ会長CEOはもちろんこの2つの違いはよく理解している。本当に「日本も移民をじゃんじゃん受け入れろ」と思っているのなら、移民(immigration)という言葉を使うはずだが、そうしていないということは、日本政府が推進している「海外から人材を受け入れる」という政策をさらに加速すべきだと言っているに過ぎないのだ。
さらに引用を続けよう(話の都合上掲載の順番は若干変えてあるので、繰り返しになるが、詳細は原文を参照されたい)。
これはさらに言えば、「はいはい、そうやってオールドメディアの連中はすぐにヘイトだ差別だと理屈をつけて、ネットやSNSが暴いた真実をデマとか陰謀論とかで片付けるんだよね」と冷笑する方も多いだろう。しかし、今回のケースは、そんなみなさんが毛嫌いしているオールドメディアの典型な「スピンコントロール」にまんまと乗せられた形だ。
では、AFP通信の場合どんな「意図」かというと、一言で言えばニュースの切り取り方に「欧州の価値観」が押し付けられてしまう。欧州メディアなのでどうしても欧州中心で物事を考えて、「欧州の社会問題=世界の社会問題」というバイアスがかかってしまう。
その代表が「移民」だ。AFP通信のあるフランスでは全人口の10%が移民となり、治安の悪さや貧困率、人種差別などさまざまな問題が起きている。欧州全体でも移民は頭の痛い問題だ。そういう社会問題を抱える欧州のメディアなので当然、「移民」はキラーコンテンツとなる。世界中の支局もその価値観に引きずられ「移民コンテンツ」が量産されていく。最近でもこんな感じだ。
- 英人口、過去最大1%増の6830万人 移民が押し上げ(ロンドン 2024年10月9日)
- 移民強硬派ホーマン氏「国境管理トップ」復帰へ トランプ次期政権(ワシントン 2024年11月11日)
- マスク氏、移民問題でイタリアの判事を非難 野党は内政干渉と反発(ローマ 2024年11月13日)
ここまで言えばカンのいい方はもうお分かりだろう。このバイアスこそが、ラジュ会長CEOの「海外から人材を受け入れる」という発言が、「移民を受け入れ」に変換されてしまった理由である。
そもそも、「欧州の価値観」に照らし合わせれば、日本政府やラジュ会長CEOがいう「海外から人材を受け入れる」ということは「移民政策」以外の何ものでもない。日本の価値観では両者は違いがあるので、日本のメディアはさすがにこういうダイナミックな「意訳」はしないが、欧州のメディアからすれば「だって同じことでしょ?」の一言で片付けられてしまうのだ。
メディアの中で働いたことがある人間ならば、こういうバイアスは身をもって体験しているものなので、「ああ、このメディアはこういうニュースで社会に問題提起したいのね」という意図がある程度読める。アメリカ人もそうで、多くの国民はメディアに「意図」があることを理解している。保守系、リベラルでメディアの論調は180度異なるからだ。実はこれは中国人も同様で、「人民日報」を読むとほとんど人たちは「ああ、共産党は今こういうプロパガンダをしているのね」と冷ややかな目で見ている。
もうええでしょう!という某ドラマのセリフが出てきそうだが、要するに今回の騒動は、メディア側のコントロール(バイアス)と、それを適切にフィルタリングできなかった受け手のメディアリテラシーの欠落が生んだものと言えるだろう(ついでに言っておくと、私は亀田製菓の製品は別に買っていないしファンでも何でもないので、個人的にはその株価や売り上げがどうなるか自体はどうでもいい。ただ、社会現象として極めて不健全な特徴が観察されると感じたので取り上げた次第だ)。
言い換えれば、亀田製菓CEOのインタビューとそれへの反応は、不安にかられた「真面目な不勉強家」たちがオールドメディアの報道にまんまと乗せられ、軽挙妄動した結果と表現できるのである。
そこで私が不思議に思うのは、大騒動になるほどの移民への危機感を持っており、かつマスコミなど昨今では「マスゴミ」と言われ日々袋叩きの対象にさえなっているというのに、肝心な検証のフィルターはザルなんだな、という点だ(まあ「マスゴミは移民に問題がないという方向で隠蔽する方針で報道してるんだから、そのマスゴミが移民と明言するなら移民の話のはずだ」というある意味逆のバイアスがかかってるのかもしれないが)。その意味で、冒頭で陰謀論にハマる人たちの特性について述べられた「真面目な不勉強家」という特性がここにも当てはまるなあと思う次第である。
もちろん、「海外メディアのことなんてわからんよ!」という意見もあるだろうし、それを否定するつもりもない。アメリカのAPやロシアのタス通信といった特に大手のメディアに加え、韓国の朝鮮日報など主要各国に報道機関があるわけだから、それらの特性なんていちいち知るか、というのは理解できる。
とはいえ、海外の主要メディアについても、「ワシントンポストは左寄り」だとか、「フォックスニュースは右寄り」といった情報は普通によく言われているわけで、それらを真水のように信用できないのは当然のことと言える。ちなみに私はジャニーズの性加害報道に関してBBCの動画を引用しているが、同じくBBCがコミットしてしまったジミー・サヴィルの件についても言及している。要するに、「メディアなんて所詮その程度だよ」とその性質を一歩引いてみる眼差しと、「だからこそクロスチェックによる検証が必要だよね」という穏健な懐疑主義はセットなのであり、そのどちらを欠いても容易におかしな認知に陥ってしまうのだと肝に銘じるべきだろう。
誠に残念なことではあるが、経済不安と社会の分断(共通前提の消失)が進む中、今後こういう事象は増えこそすれ、減る可能性は低いと考えられる(ちなみにこれがローンウルフ化すると、「無敵の人」によるテロールやその連鎖として現出することとなる)。その意味で以後の教訓的な事例として取り上げておくこととしたい。
以上。
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