生や死の持つ「暗闇」:恐れと答えの希求

2006-02-21 02:34:50 | 抽象的話題
神が「死んだ」り伝統宗教の権威が相対的に弱まったとしても、人にとってなお生や死が「暗闇」である事実は変わらない。すなわち、人は「なぜ」生まれ、「なぜ」生きようとし(ex.「生存本能」のみで説明がつくのか?例えば人を庇う行為はどう位置づけられのか)、「なぜ」死に、そして死んだら「どう」なるのかといった基本的な現象の解明すらなされていない。これについて、「全ては偶然に過ぎない」と言う人もいるだろう。しかしその見解もまた、証明されたものではない。であるならば、「偶然」もまた一つの推測に過ぎないと言えるだろう(これについては後で詳しく述べる)。

また中には、ヴィトゲンシュタインの「語りえぬことについては沈黙しなければならない」などを持ち出し、「わからない、だから語らない」と言う人もいることだろう。なるほど個人の思索というレベルにおいて、その態度は尊重すべきものであるように思う。しかしながら、生や死がリアルなものである以上、それを純粋に観察の対象物にしておくのが不可能に近いというのもまた事実ではないだろうか。とすれば、人間は理解できないものに対して不安や恐怖(時に興味)を覚える性質がある以上、生や死という現象が持つ「暗闇」に対してもまた、同じような反応を示すのは必然的なことと言える。

ならば、不安や恐怖のためにその「暗闇」を取り除こうとする動きが出るのもまた必然的なことである。どれだけ手垢が付いた問題であろうとも、それが「暗闇」であり続ける限り、そこからある種の感情が喚起されるのは変わらないのだから(先人がどれだけ思索を重ねようと、ヒトの生が一回的なものである以上、「暗闇」は常に生々しい迫力を持ち続けているのだ)。ただ、時代や環境によってアプローチの仕方が変化するだけのことである(そう考えると、近代が強く持っている[時には「信仰」すらしている]「合理」という側面や宗教の相対的な衰退も、ある意味では二次的な要素にすぎないのかもしれない)。そういった状況に目を背け、例えば科学や合理を至上のものとして(意識的・無意識的に)位置付け、ただ宗教を「非科学的」と切り捨てたりなどするなら、それは一面的な見方であるように思う(確かに支配的な死生観が存在する中では、それをラディカルに否定することが強い意味を持ったであろうが…)。誤解と批判を恐れずに言えば、今の科学にとって生や死の「暗闇」は「わからない」ことでしかない。要するに、「語りえぬことについては~」と同じである。ならばその見方は、「暗闇」というまったくリアルな問題に対して怯える感情に対してあまり有効とは言えないだろう。


※誤解のないように言っておきたいが、私は宗教を勧めているのでもなければ、スピリチュアルな思考に帰れと言っているのでもない。ただ、生や死といった根源的な問題が、未だ「暗闇」のままであるということを繰り返しているだけである。その観点から言うなら、例えば伝統宗教の衰退は、あくまでその死生観が絶対的なものではなくなり、それが占めていた部分に新興宗教や唯物論が収まったということであって、伝統宗教的なものの見方が無効になったことを意味しない。そして、宗教と対立する枠組みとして位置付けられてきた「合理」や科学もまた、「暗闇」に対して答えを提示していないという状況(とその認識)が重要なのである。
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Unknown (かわぴょん)
2006-02-21 23:00:23
 それは違うと思う。科学とは神を理解するために宗教から生まれたのだ。神という言葉は抽象的だが、神とはこの世界の物理現象そのもので、それを説き明かす事が科学であり、宗教。2つの目指す場所は同じ。事なる手法を用いているに過ぎない。

 そして『現在』分からない事が、これからも分からない・・・とは限らない。分からないから探求し、追求する。これが科学。科学する心とは、不可能を可能にし、着実に前に進む事なのだ(ゴールがどこにあるか私は知らんけど)。

 人が1人でできることは少ないが、人は言葉により知識を集積、伝達できる。先人の叡知は現世代が引き継ぎ、次の世代へ受け渡す。神への挑戦、それが科学。

 考察により編み出された理論を実験で確認し、手法を確立し、更に考察。先へ進む。これが科学。

 現在の宗教は、真の宗教ではなく、単なる集金マシーンと化してる気がしないではないが、本質的に科学と宗教は同じものなのである。



 ただ、元は同じ心から発生したのに、宗教は無条件に信じる事に特化し、科学は疑ってかかる(これが考えるということ)事から始まる。だが科学で証明された真実は揺らがない。これは宗教と同じである。

 聖書を学ぶことは、世界の成り立ちを理解する事。これがすなわち科学を生んだ。

 信じることと疑うことは結局同じところに行き着くのである。



 生と死、そして存在の意味。思索はそれを説き明かそうとするし、生命科学は科学の力でそれを解析しようとしている。

 現在の段階では、どちらもこの命題を解いていないのではないかと思われる。



 と、まじめにコメントしてみたりするけど、実はみかんの手間と価値の方にコメントし忘れただけだったりする。 

返信する
最も問題なのは人々の認識 (ボゲードン)
2006-02-22 03:05:43
コメントありがとうございます。こういった内容に今までコメントが付いたことがなかったので、嬉しいかぎりです。ただ内容を拝見して私が危惧するのは、(端的に言えば)「暗闇」であることを自覚しない人々の「認識」について批判的な内容を書いたのに、その認識が私のカテゴライズや理解の仕方だと受け取られたのではないか、ということです。その誤解を解く意味も含めて、煩雑になるのを恐れず詳しく書いていこうと思います。



>科学とは神を理解するために宗教から生まれたのだ。神という言葉は抽象的だが、神とはこの世界の物理現象そのもので、それを説き明かす事が科学であり、宗教。2つの目指す場所は同じ。事なる手法を用いているに過ぎない。



まず誤解のないように言っておきたいのですが、私は「科学と宗教が対立したものだ」といったような書き方はしていませんし、そのように思ってもいません。むしろかわぴょんさんの見方には賛成です。まあ「神を理解するため」とまで断定的に書けるかは非常に疑わしいところですが、例えば占星術、錬金術、数秘学など境界に属するような「科学」だけでも多くのものが挙げられます(それに含まれるものとして夢分析も興味深いものと言えるでしょう)。また、医学や心理学といったものが「科学性」を装いながら、その実いかに(宗教も含めた)社会情勢に影響されて生まれてきたかはミッシェル・フーコーなども指摘するところです。



しかし、詳しくないのであまり突っ込んだことは言えませんが、例えばギリシアにおける数学を宗教から生まれたと言ってよいのか、私は疑問に感じます。また「神とはこの世界の物理現象そのもの」というのも、そこまで断定してよいか疑問です。確かに、例えば『コーラン』において、世界の天候の変化や天体の動きを「これこそまさに神の御力」と言っているような章句が少なからず見受けられます。しかし、そこから凡神論的理解(認識)が世界共通とまで言うのなら、賛同しかねるところです。まあこの手の話をしだすと、「神と人格」「神の無謬性」「そもそも何をもって『神』と言っているのか」といったところまで問題にしなければならないので、面倒くさがりな私としては避けて通りたい問題ですがw



>そして『現在』分からない事が、これからも分からない・・・とは限らない云々



この部分は私の記事と何ら矛盾しないように思います。なぜなら私は、かいつまんで言えば、「現状を自覚しろ」と言っているのであって、将来の可能性は一切否定していませんから。



>現在の宗教は、真の宗教ではなく、単なる集金マシーンと化してる気がしないではないが、本質的に科学と宗教は同じものなのである。



さて、「真の」宗教とはどんなものでしょうか?宗教学や宗教社会学で誰かが作ったカテゴリー?それともかわぴょんさんなりに生み出したカテゴリー?それとも統計を取って最大公約数的な要素を抽出したもの?私は思考の基盤を掘り崩して思考停止を招く気はさらさらありませんが、自らの認識がどういった基盤により成り立っているのかということを考える際、「真の~」という言い回しは、往々にして分析に基づいたものではなく、「かくあれかし」という自己の理想の投影なのではないか、と私には思えるからです(違う言い方をすれば、「宗教のカタチが変化した」ではなく「真の宗教ではない」となるのはなぜか、ということ)。



>ただ、元は同じ心から発生したのに、宗教は無条件に信じる事に特化し、科学は疑ってかかる(これが考えるということ)事から始まる。だが科学で証明された真実は揺らがない。これは宗教と同じである。



私自身は宗教と科学を対立するものと見ていないのでこれについて長々と論じる必要はないと感じますが、少し補足をしておきたいと思います。まず、「宗教は無条件に信じる事に特化し」とありますが、これにはやや首を傾げるところです。まあ確実なことを言えば、たとえ無条件に信じる事が宗教の根源であったとしても、人々の認識というレベルでは解釈が入ってくるので、結局千差万別にならざるをえない、という事実でしょう。そうでなければ多くの宗派は生まれませんし、また例えばイスラーム法学に学派はいりません(イスラーム法学は法律のみならず戒律にも関わってきますし、また現実での適用状況は不明な部分が大いにしても、「背教」といったおよそ宗教の根源に関わる部分すら学派によって解釈が違うのです)。



そして、「だが科学で証明された真実は揺らがない。これは宗教と同じである。」という部分ですが、これはまあその通りだと思います。もっとも、証明されていない部分がいかに多いか、ということがどれほど人々に認識されているか、少々疑わしいところですが。科学者と同レベルの知識を持てというのではありません。それがいかに証明されぬ(=不明の)部分を数多く残しているかを理解しているのだろうかと疑問に思うのです(例えば、地球温暖化現象は新聞などでよく扱われ、人口に膾炙していますが、100%証明されたものではないと聞いたことがあります)。また例えば、長崎大医学部の同期の人間に聞いたことですが、精神医学を研究していてノーベル賞を取った人間は三人いるそうですが、それらの説は今では否定されているそうです。



>聖書を学ぶことは、世界の成り立ちを理解する事。これがすなわち科学を生んだ。



なるほど確かに。学校で進化論を教えるか聖書に基づいた世界創生の話を教えるか、特にアメリカで問題になっているということはよく知られていることですね。ちなみにかわぴょんさんの言う「科学」に入るかはわかりませんが、以前友人と「人間はどうして服を着るようになったのか」ということが話題になった時、そういった人間に見られる特異性が説明がつかないから、頭をひねって創世記が生み出されたんじゃないか、といった話をしたことがありました。



>生と死、そして存在の意味云々



ここも本文と矛盾する部分ではないので、コメントする必要はないでしょう。



長くなりましたが、大体こんな感じで考えてます。では。
返信する
どんどん長くなる~。 (かわぴょん)
2006-02-22 18:04:16
こちら、かわぴょん。



 やっぱり「みかん」にしとけば良かった~!!!



 さて読み返してみたところ、確かにそうは書いてないのだが、はっきり言って分かり難い。しかもわざわざフォントサイズを上げて色をつけてある部分が強調されているため、余計に筆者の意見が分かり難くなってます。

 で、なおかつ筆者の意見が見えて来ない。私の読み解くところだと、「分からないことを分からないと認識することが大事」というのが筆者の意見のよーな気がしますが、読めば読むほど、筆者が何を言いたいのか分からなくなって来ます。



>ギリシアにおける数学を宗教から生まれたと言ってよいのか



 これは痛い所を突いて来る・・・。キリスト教から派生した化学・天文学・解剖学などを考えていたので、ギリシアの数学は眼中にありませんでした。ギリシアの数学は・・・・特に幾何学の発展は、確か天文学からスタートしたはずなので・・・すいません。確かな情報がないので反論出来ません。悔しいのでそのうち調べてみます。



>さて、「真の」宗教とはどんなものでしょうか?宗教学や宗教社会学で誰かが作ったカテゴリー?それともかわぴょんさんなりに生み出したカテゴリー?



 ウイ・ムッシュウ。 私の作り出したカテゴリーです。私は宗教の専門家ではなく、専門は生命科学(バイオテクノロジー)の分野なので宗教に関する戦いだと私に分がないです。

 宗教と信仰を私がごっちゃに考えてました。(この2者が分離できるのかどうか、私は知らんですが)

 私が思うに、神様でも聖霊でも何でもよいのですが、信じることが宗教(あるいは信仰)の基本にあるような気がするのです。日本語の「イワシの頭にも信心」ってのが一番近いかと。他には「踏み絵」とか。これに対し、研究では、全ての条件(気温などの自然条件を初めとして、使用した器具、培地、培養条件等の全て)を疑ってかかる所から始まりますので、全ての答えを「聖書のここに書いてあります」という奴らが大嫌いです。日本語に翻訳された聖書が正しいとまず証明できないだろうに。天竺までお経を取りに行った三蔵法師を見習わねばなりません。あ、でも三蔵法師の行動原理は、翻訳に疑問をもったからなので、それは科学的な知識の欲求のような気がしてきた・・・・。

 宗教をやってる人間で、疑問も持たずにただ信仰してるのを「真の宗教」と私が呼んでみただけなので、あまりお気になさらず!



 全てを疑ってかかるというのは私が自分の教授から学んだ科学的思考の第一歩です。身近な例を取ると、「WindowsXPでは遊べません」というインストールすら不可能なソフトを強引に手動でファイルコピーして動くようにしたりとかですかな。コンピューターの仕組みを知らなくてもコンピューターを使えますが、仕組みを知ってた方が、出来ることが増えるので数倍面白くなる。最善策が駄目なら次善策。それでも駄目なら第3・第4の策を考える。考えて実行して駄目なら原因を探って、次の策に移行するというのが私のやり方で、私はこれを科学的思考による行動だと思ってます。

「それはなぜ?」と考えるのが一番重要なのかな?

私の座右の銘は「Nothing Impossible」=「この世に不可能な事は何もない」です。それでも不可能な場合は、私の努力か能力のどっちかが足りないのでしょう。



●「神とはこの世界の物理現象そのもの」

 物理現象という書き方がまずかったですかね? この世界を作ったのが神様ならば、この世界の現象を解析するのが科学の使命! これは私の考え方です。

 というか、上のは一般的な意見ではありませんよ。他人の意見を借りて来て議論をするような卑怯者は士道不覚悟で切腹ですよ。議論は自分の言葉で、自分の意見を戦わせねば。武器として他人の言葉を使うのは可だと思います。つーわけで、ほとんどが私の意見ですので、ガンガン反論は受け付けます。



>凡神論的理解(認識)が世界共通とまで言う



 日本には神様と仏様がいて、更に外来の神様まで居るので複雑です。私の意見は世界共通ではもちろんなく、それは私の意見です。だから世界共通ではないと思いますよ。たぶん。



>「真の~」という言い回しは、往々にして分析に基づいたものではなく、「かくあれかし」という自己の理想の投影なのではないか、と私には思えるからです(違う言い方をすれば、「宗教のカタチが変化した」ではなく「真の宗教ではない」となるのはなぜか、ということ)。



 「宗教のカタチが変化した」 おお! これは良い表現ですね。では、変化する前のカタチが「真の宗教」ではないですか? あ、それだと変化後の宗教は、別物であると証明しなくてはならないのか。うーん、うーん。

 例えば、ウチのお寺さんは、寒行に来て、お布施を持って行きますが、昔はタイコ(なのかな?)を皆で叩きながら家々を回ってましたが、今は自動車で移動して、家の前に来てから寒行(タイコ叩き)を始めます。それは集金とどう違うのだろう? と常々疑問に思っております。 全国のお寺さんの中でこんなことをしているのが何件ぐらいあるのか知りませんが、なんか、それはもう、宗教とは遠い所に来ているよーな気がします。



●進化論

 これは、現在の進化論が不完全なのですよ。ただ、バイオテクノロジーの分野では、進化論の応用で成果を上げてますので、進化論が間違っているわけではなく、ただ単に完成していないだけだと思います。特に人間の出現の部分に関して。

 この部分に関しては、世界中の神話(私の知る限り)で人間は突然出現したような記述があるので、そっちが正しいような気もします。



 私は「この世に不可能なことは何も無いけれど、現在分からないことを分からないと認めるに吝(やぶさ)かではない」

 という考えなので、ボゲードン様の意見と同様になるのではないかと。

「じゃあ、何で書いたんだよ?」と言われれば、これはボゲードン様の意見を私が誤解していたからにほかならないと思いますです。



 やはり「みかん」の方にしとくべきだったか・・・。
返信する
神と世界の捉え方 (ボゲードン)
2006-03-01 00:01:56
返信が送れてすいません。



>さて読み返してみたところ~



後で書いた補足が参考になれば幸いです。



>確かな情報がないので反論出来ません。悔しいのでそのうち調べてみます。



ん~、「一般化はできない」ということにしておけばとりあえずいいんじゃないでしょうか。西欧だけでもそうですが、中近東の医学(exイブン・シーナー)、インドの数学といったものが宗教に基づいているか、というとこまで視野に入れなければなりませんから。日本もどうだか疑わしいものです。



>私の作り出したカテゴリーです~



いや、専門家でないのは全く問題ないと思いますよ。私としては基準がわかりさえすればそれでよかったので。



>疑ってかかる所から始まりますので、全ての答えを「聖書のここに書いてあります」という奴らが大嫌いです。



これは同感ですね。というか基本的に私は、「信者」というものが嫌いなものでw



>日本語に翻訳された聖書が正しいとまず証明できないだろうに。



全くその通りですね。まあ例えばキリスト教側の論理で言えば「神を試す」行為ということでご法度になるんでしょうなw疑うというわけじゃありませんが、解釈が一種の代替物となっている、というところでしょうかね。



>全てを疑ってかかるというのは私が自分の教授から学んだ科学的思考の第一歩です。



なるほど、私も経験しただけに、これはいい例だと思います。



>物理現象という書き方がまずかったですかね?



そんなことはないですよ。ただ、世界の事象が全て神の手に拠っているというのは、宗教的にも一般化できない見解だと思うのです。科学のほうはよく知らないのですが、例えば事象の全てが何らかの意思(?)により起きているという考え方はあるのでしょうか?あるいは全てに法則性がある(偶然は存在しない)という考え方は?まあその場合、神と言わず、超越者でもアカシックレコードでもガイア理論でも何でもいいわけですが。要するに全ての事象が収斂される「原点」のような考えは存在するのでしょうか?



>他人の意見を借りて来て議論をするような卑怯者は士道不覚悟で切腹ですよ。



「他人のふんどしで~」といった意味合いではなく、意見をしっかり把握するために立脚点をお聞きしたかった、ということです。



>日本には神様と仏様がいて~



これに関しては、かわぴょんさんが西洋の自然科学を主に念頭に置いていると考えて書いていました。そうすると、神の遍在や神の性質といった神学議論が行われてきたことから、汎神論は受け入れられないものとなります。ちなみにイスラームでも同様な議論があります。つまり世界三大宗教の二つを歴史的に見て、汎神論や「物理現象は全て神の業」といった捉え方が一般的だったとは言えない、ということが言いたかったのです。日本に関してなら、かなりな程度当てはまると今のところ理解していますが。まあその場合でも、現象が一個の意思によってなされていたるとか、最終的に一個の意思にたどり着くと理解されていたかどうかは疑問ですが。



>「宗教のカタチが変化した」 おお! これは良い表現ですね~



これに関して、例えば「貴様」という言葉を考えてみましょう。これは日本中世において、敬称の意味を帯びた二人称でした。ところが、今ではむしろ逆の意味になってますよね。さて、もし今、「貴様」のもともとの意味は敬称だからと言って、それと同じような使い方をして人に通じるでしょうか?ほぼ間違いなく通じないでしょう。では、現在の「貴様」は間違っているのでしょうか?そうは言えないでしょう。むしろ用法が変わった、と言うべきところです。



これが宗教についても当てはまる部分があるのではないか、と私は言っているのです。物事は移りゆくものです。もとのカタチを把握することは大事ですが、それこそが正しい、としてしまうのはどうだろうか?と思います。あくまで極端な話ですが、それは行き着く先は原理主義と何が違うのだろうか、と。



とはいえ、かわぴょんさんが挙げる例と宗教に対する印象は、感情的な部分で私も通じるものを感じていると思っています。



>これは、現在の進化論が不完全なのですよ。



それはわかる気がします。そういったとこも含めて、闇は深いというところでしょうか…



だいたいこんな感じです。返信が遅れてほんとすいません。では。
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