日本における大きな言語的変化と言えば、おそらく漢字の伝来と欧米文化の到来の二つが想起されるのではないだろうか。しかし実際には、漢字の伝来にもいくつかの「波」が存在し、それが日本における漢字使用の複雑さと豊かさを構成していることについては、それほど意識されていないように思われる。
それが和語を表す訓音の他、4~5世紀に南朝と公益していた頃伝来した呉音、7~8世紀には北京など北方中国の漢音が流入、その後さらに唐音が入ってきた、という具合である。そして漢音が音読みの軸をなしていったが、呉音は衆生(「しゅうせい」ではない)や黄金(「おうきん」ではない)などの仏教用語に多く残り、そして唐音は提灯(「ていとう」ではない)や布団(「ふだん」ではない)などとしていわばある領域で部分的にその足跡を止めることとなった。
これは漢字自体を覚える労苦にその読みの多様性という難儀さまで加えるという意味で、日本語学習のハードルを高くする要因の一つになっていると言ってよいが、ともあれこういった借用による言語の重層性というものは、独り日本語だけに見られるものではない。
例えば英語を習う時、多くの人はそのスペルと発音のでたらめさに驚くが(これはバーナード・ショーなどイギリス人自身も言っているので難癖でもないだろう)、その背景は英語本来語の他に古ノルド語・フランス語・ラテン語・ギリシャ語など様々な言語からの借用で語彙が構成されていることにある。割合として研究によって若干異動はあるが、ラテン語で30%弱、フランス語で20%強、ギリシャ語で10%強であり、ここからわかるように、英語本来語は実のところマイノリティに過ぎないのである。
では、このような借用は気まぐれや偶然性の産物かと言えばそうではない。例えば前述の日本で言えば、そもそも先進地域の文化を摂取する時に仏教というのが大きなパイプとなったことが良く知られており(百済との関係性や仏教公伝を想起するのも有益だろう)、先の呉音が仏教用語として残った背景もそこにある(ヨーロッパで言えば、カロリングルネサンスや12世紀ルネサンスでラテン語に習熟したアルクィン、オッカムのような聖職者たちが活躍したことを想起してもよいだろう)。
英語の場合も同様で、フランス語の流入の契機は11世紀のノルマンコンクエストとノルマン朝創始であるし、ラテン語の流入は特に15~16世紀のルネサンスが影響しているのはよく知られている通りである。
このように、言語の理解は歴史の古層を積み上げて現在を理解することに繋がる、という意味で極めて重要なものだが、このような視点を古典の学習に際して重要視すべきだと私は考える。
基本的に古典の学習というものは、突如として古文の文法や漢文の句法、あるいはいきなり古典の文章に触れるところからスタートするものだが、現在と全く切り離した形でそんなものを習い始めることに、一体何の価値があるというだろうか?いや、より正確に言えば、そんな手法でいかにして「価値があると感じさせられると思うのか?」と問いたい。
そうではなく、今ある言語から歴史を遡行していけばよいのである。例えば漢字ではないが、「ポン酢」についてなぜ片仮名+漢字なのかという問いから始め、それがポルトガル語由来であり、かつそれは戦国時代の南蛮貿易(16世紀)にまで逆上ることを理解し、そこからなぜポルトガルなどという遠い国の人々が、そのタイミングで日本に到来したのかと問い、それが香辛料を求めた大航海時代へと繋がる・・・といった具合だ。
あるいは漢文について言うなら、現代文と近代文語文(主に明治や大正の文章)の比較対象から始め、その語彙や語調から、漢文の書き下しや当時の漢籍の立ち位置などを理解させるのがよいだろう(そこでは、欧米文化との相克といったことも当然問題に上がってくるはずだし、それを元に漱石の『私の個人主義』などにつなげるのもよい)。これは突飛な提案でも何でもなく、例えば一橋大の国語では現代文しか出題されないが、そのうちの一つが近代文語文であり、つまりそれが漢文や古文を代替する(言い換えればそれと橋渡しになる)素材として位置づけられているのである(ちなみに昔は京大も近代文語文を出題していたが、今では出していないようだ)。
また古文であれば、例えば「る・らる・す・さす・しむ」の意味と活用の暗記ではなく、現代の用法とリンクさせ、例えばる・らるは「自発」の意味を持つと言われてもわかりにくいが、そこで「こんな様子じゃ先が思いやられる」といった現代語の文を例に説明すればよい(前にも紹介したが、熊本弁であれば「おるが店」→「俺の店」といった形で連体修飾格の「が」を説明するといった方言に紐づける方法もある)。
要するに、現在もしくは日常とのリンクを扱わないまま、ただいたずらに「過去の大事なものだから覚えろ」と言ったところで、ごく少数の学生を除けばテストのためのお題目以上になることはないし、それらが血肉にならないのは当然であろう(ちなみに枕草紙を清少納言が書いたとか、そこで「春はあけぼの」といったフレーズが使われていると知っている程度のことで、血肉になっているとは全く思わない。なぜならそれだけでは何ら発展性がないからである)。
それを鑑みて、少なくとも党派性や権威主義によらず本心から古典の理解を重要だと思うなら、まず学び手に対するマインドセットや演出を徹底的に工夫するところから始める責を負っているのは言うまでもない(個人的に古典が好きという「趣味」の領域なら自分限定でいくらでも勝手にやればよろしいが、人様の貴重な時間を使って公教育として強制するのであれば、そこには有効性を追求する責任と義務があるという話だ)。
しかしながら管見の限り、今の古典に関する教育で、そのようなシステム構築の徹底がなされたなどという話は、ついぞ聞いたことがない。だから私は、古文・漢文の教育を高校で行うことを極めて優先度の低いものだと否定的に扱うのである(もちろん、例えばAIが生産活動を完全に回すようになって人間が仕事や生業のために学ぶ必要がなくなった世界などであれば、この話の限りではないのだが)。
ちなみにこれを無理難題と思うなら、それは現在の(少なくとも高等)教育の傾向を知らないように思える。例えば歴史について言えば、これまでは基本的に古い時代から習い始めるため、時間的制約によって近現代=自分たちに近い時代は高速で処理された李、あるいは全く触れないということさえ多々あった(まあ学校によっては大航海時代や産業革命など新しい時代からやり、後で古代に戻るという方式を採っているところもあったようだが)。
言い換えれば、現在に近い時代=現在により大きな影響を与えた時期のことをむしろよく知らないという逆転現象が起きていたわけで、今ではその反省を活かし、「歴史総合」という科目が創設され必修となっている。これは昔で言うところの「日本史A」と「世界史A」を組み合わせたもので、18世紀以降を扱いつつ日本史と世界史をシームレスに学習する内容となっている。そしてその上で、世界史探求(かつての世界史B)や日本史探求(かつての日本史B)で従来のような歴史の学習を行うのである。
あるいは数学でもそうだ。そもそも、センター試験の後継で生まれた共通テストは、数学ⅠAが日常生活と数学のブリッジを意識しており、「人物の会話の中で何かを疑問に思ったり何かを解決するにあたって数学や数式を使う」という構成になっている。まあそのような出題形式がどの程度成功しているかについては議論があるだろうが、こういった方向性は現在の数学の新課程にも反映されており、例えば数学ⅠAでは「ゲームの中の確率」という分野を教わることになったし、数学ⅡBには「数学と社会生活」というそのものズバリな単元が新しく組み込まれている。
このような流れで見れば、学びの内容がいかに現在や日常性と結節するのかという視点はむしろ必要不可欠なものとなっており、それと無関連な象牙の塔に属するようなものは、たとえどれだけ重要性を訴えたところで、情報が無限に溢れている昨今ではそのunfamiliarityゆえどんどん後景へと押し流され、「試験で点を取る」という目的が達成された暁にはほとんど霧散してしまうのも、ごく必然的なことと言えよう。
以上改めて繰り返すが、公教育で古典の学習をやるのならば、ただでさえその有効性に疑問符がつきやすい以上、それを高める努力を徹底的に行うべきであり、お役人や教師たちの懐古趣味など毛ほどの価値もないし、そんなものに学生の貴重な時間を浪費させているという意味において有害ですらある。
その点で、現在の言語の構成から、古語と歴史に遡行していくという流れは、それらが隔絶した知識ではないものとして今より興味を持ちやすくなるという意味でも、現在の深い理解の土台になるという意味でも、科目の垣根を超えるという意味でも、非常に有効なアプローチではないかと思う次第である。
以上。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます