「うみねこにハマれないのは…」や「至極のビブリオ」といった最近のネタと、作者の意図を重視すべしと言っていたかつての文章は一見矛盾しているように見えるかもしれないが、私の中では次のように繋がっている。
今や作者・原作は「神」でも「真理」でもないが、それは両者が無価値になったことを意味しない。たとえば「誤読の自由」なる物言いはもはやクリシェだが、誤読という表現自体、あるべき読みが念頭になければ成立しえないものだ。また二次創作は確かに原作の設定などを全く無視してキャラだけ取り出すことも可能であるが、消費される段階まで考慮に入れれば、結局は原作に依拠して初めて成立する場合が多いし、少なくとも、原作という準拠枠がなければその魅力は半減してしまうだろう(例えばパロディは原作とのズレから笑いを生じさせる表現形式であるが、逆に言うと原作がなければズレもなく、ゆえに笑いも生じないのである)。
もっとも、これには容易に反論ができる。「いやちょっと待てよ。原作の設定を無視してキャラだけ素材として利用する二次創作があって、それを何も知らない人が見て笑ったりすることだってあるだろう」という具合に。例えば(二次創作の)製作という観点では、本編の設定を踏まえた上で番外編的な物語を作るというのは古典的な手法だが、データ解析・抽出による組み替えといった手法は存在するし、これから増えていくだろう(東浩紀『動物化するポストモダン』中の「痕」の事例が典型的。また必ずしも二次創作ではないが、ゲームのデータ解析によるチートなども親和性が高い。「ドラゴンモエストⅥ」などを参照)。また受容する側としても、例えばドラクエⅥをよく知らない人が、何だか題名がおもしろいからと「ドラモエ」を見て下ネタに笑う、といった現象は起こりうるのである(冗談か本気かわからないが、「マッドギア ソリッド」を見た友人はメタルギアがそういうゲームだと思っていたらしいw)。
以上のように、作者の意図しない読み変えと誤配は確かに存在するし、これからますます増えていくと思われる。ゆえに作者・原作がワンノブゼム(に近い状態)となり、作者の意図という「真理」を読み取りさえすればそれで済むとはもはや言えない状況となっているのは確かだ。しかし、それをもって作者・原作が無意味になったと考えるのはあまりに短絡的である。先に述べたように、パロディの多くはやはり原作とのズレゆえに成立するものであるし、またいくら「誤読の自由」を謳おうとも、あるいはその枠組み自体が、あるべき読みという観念から抜け出せてはいないからだ。
まとめよう。
全てが作家(性)に還元されるような環境あるいは思考様式に対するカウンターとしては、もはや作家・原作が真理たりえないことを指摘するのは重要な意味を持つ。しかし、原作が二次創作と完全にフラットな存在となり、またそれゆえに作者の意図を読み取ろうとする行為は無意味とまで考えてしまうと、それは様々な受容形態の存在する状況を単純化しすぎであるだけでなく、「作者の意図の分析→受容[誤読]の状況→誤読が生じる背景の分析」といった視点(※)の欠落をも招き、結果として様々な情報を見落としてしまうと思うのである。
※
例えば「沙耶の唄:虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」では、作者の求める読み方とプレイヤーの受容環境を分析した上で、誤読がむしろ必然的であると述べた。このようなアプローチによって両者の特徴をあぶり出すことができたと考えているが、それは作者の意図と誤読を安易に横並びにしなかったからである。誤読が作者の意図(原作)と等価なものとして位置づけられるのはいい。しかしそれをもって、誤読に対し「それもありだよね」とただ受け流すような思考様式が加速してしまうのであれば、それは様々なものを見落としてしまうことに繋がるのではないだろうか。
ところで、虚淵玄がインタビューの中で言った「誤読(の自由)」は、様々な前提や断念に基づいているのではなく、まさに「それもありだよね」的ないわば「ズブズブの寛容さ」の発露にすぎないのだが、それについては別の機会に述べることにしたい。
今や作者・原作は「神」でも「真理」でもないが、それは両者が無価値になったことを意味しない。たとえば「誤読の自由」なる物言いはもはやクリシェだが、誤読という表現自体、あるべき読みが念頭になければ成立しえないものだ。また二次創作は確かに原作の設定などを全く無視してキャラだけ取り出すことも可能であるが、消費される段階まで考慮に入れれば、結局は原作に依拠して初めて成立する場合が多いし、少なくとも、原作という準拠枠がなければその魅力は半減してしまうだろう(例えばパロディは原作とのズレから笑いを生じさせる表現形式であるが、逆に言うと原作がなければズレもなく、ゆえに笑いも生じないのである)。
もっとも、これには容易に反論ができる。「いやちょっと待てよ。原作の設定を無視してキャラだけ素材として利用する二次創作があって、それを何も知らない人が見て笑ったりすることだってあるだろう」という具合に。例えば(二次創作の)製作という観点では、本編の設定を踏まえた上で番外編的な物語を作るというのは古典的な手法だが、データ解析・抽出による組み替えといった手法は存在するし、これから増えていくだろう(東浩紀『動物化するポストモダン』中の「痕」の事例が典型的。また必ずしも二次創作ではないが、ゲームのデータ解析によるチートなども親和性が高い。「ドラゴンモエストⅥ」などを参照)。また受容する側としても、例えばドラクエⅥをよく知らない人が、何だか題名がおもしろいからと「ドラモエ」を見て下ネタに笑う、といった現象は起こりうるのである(冗談か本気かわからないが、「マッドギア ソリッド」を見た友人はメタルギアがそういうゲームだと思っていたらしいw)。
以上のように、作者の意図しない読み変えと誤配は確かに存在するし、これからますます増えていくと思われる。ゆえに作者・原作がワンノブゼム(に近い状態)となり、作者の意図という「真理」を読み取りさえすればそれで済むとはもはや言えない状況となっているのは確かだ。しかし、それをもって作者・原作が無意味になったと考えるのはあまりに短絡的である。先に述べたように、パロディの多くはやはり原作とのズレゆえに成立するものであるし、またいくら「誤読の自由」を謳おうとも、あるいはその枠組み自体が、あるべき読みという観念から抜け出せてはいないからだ。
まとめよう。
全てが作家(性)に還元されるような環境あるいは思考様式に対するカウンターとしては、もはや作家・原作が真理たりえないことを指摘するのは重要な意味を持つ。しかし、原作が二次創作と完全にフラットな存在となり、またそれゆえに作者の意図を読み取ろうとする行為は無意味とまで考えてしまうと、それは様々な受容形態の存在する状況を単純化しすぎであるだけでなく、「作者の意図の分析→受容[誤読]の状況→誤読が生じる背景の分析」といった視点(※)の欠落をも招き、結果として様々な情報を見落としてしまうと思うのである。
※
例えば「沙耶の唄:虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」では、作者の求める読み方とプレイヤーの受容環境を分析した上で、誤読がむしろ必然的であると述べた。このようなアプローチによって両者の特徴をあぶり出すことができたと考えているが、それは作者の意図と誤読を安易に横並びにしなかったからである。誤読が作者の意図(原作)と等価なものとして位置づけられるのはいい。しかしそれをもって、誤読に対し「それもありだよね」とただ受け流すような思考様式が加速してしまうのであれば、それは様々なものを見落としてしまうことに繋がるのではないだろうか。
ところで、虚淵玄がインタビューの中で言った「誤読(の自由)」は、様々な前提や断念に基づいているのではなく、まさに「それもありだよね」的ないわば「ズブズブの寛容さ」の発露にすぎないのだが、それについては別の機会に述べることにしたい。
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