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今立っているのは隠岐神社の前だが、ここまで来るのに、聞くも涙、語るも涙の道のりがあったんで、ちょっと説明さしてくれや。
島前は海士町の北東にある宇受賀命神社を訪れた後、そのまま町の中心部にあたる中里に向かったのだが、最初に隠岐神社を攻略した後、残った時間で博物館系を見て回ろうと思っていた。
しかし、カーナビが指し示す隠岐神社の場所はどう考えても山の中で、周辺には鳥居はもちろん境内の様子もない。どうやら配置的には神社の裏手らしいが、これもしかすると、繁茂した木々の中からダイレクト参拝せよというお告げなのだらうか??
よもや上皇サマを祀った場所に、鵯越の逆落としを敢行する日が来るとは思なんだ・・・😇
・・・と危うく華阿那美神の導きにその身を委ねそうになったが、これを邪神による虚言だと看破した私は、一度町中に車を停めて資料館を見た後、徒歩でその入口を目指したところ、あにはからんや、鳥居はカーナビの地点とは反対方向にあったという次第(・∀・)
というわけで、ここが隠岐神社の入口でありマス。雨の中ということもあってか、つゆおとなう者なき静かな状況である。
ちなみに隠岐については前回の旅行動画で原始神道の形態を残す島後の神社などを紹介してきたが、こちらの神社は非常に新しく、1939年に後鳥羽上皇崩御700年を記念して創建されたものである。
なぜ700年も経った昭和の時代に?と訝しく思われるかもしれないが、1931年の満州事変、1932年の五・一五事件、1936年のニ・二六事件、1937年の日中戦争(日華事変)という時代背景からすれば、朝廷復権のために(まあ正確にはもっと複雑な話だが)幕府と戦って敗れた先帝を顕彰しようとする動きがあっても何ら不思議なことではない(ちなみに後鳥羽を巡る慰霊や祭祀自体は急に始まったことではなく、前回の記事で紹介した火葬塚周辺で継続的に行われていた)。
というわけで、浄財のお時間です。では、「明日天気になあれ」とでもお願いしておくか(小並感)w
ちなみに先ほど隠岐神社創建の由緒について書いたが、ワイは天皇主義者でないのはもちろん、別に「天皇だから尊敬する」というスタンスは取っておらず、あくまで日本の歴史における(重要ではあるが)構成要素の一つとして捉えている。
このことは、承久の乱の敗北を持ち出すまでもなく、乙巳の変周辺における天皇の状況であったり、壬申の乱=天皇家の跡継ぎを巡る内乱、白村江の戦いの敗北、薬子の変に見られる(実態としては)上皇と天皇の主導権争い、建武の新政とその限界、室町後期から江戸にかけての朝廷の財政的苦境(正親町天皇のように武家の財政的援助がなければ次の天皇の即位式すらできず、ゆえに退位もできなかったのはその典型)といった失政や敗北の事例などいくらでも見出せるわけで、そこに「人知を超えた何か」を感得することはおよそ困難と言える(これはキリスト教世界における教皇やイスラーム世界のカリフについても同様である)。
その意味において、隠岐神社が創建された時代背景にも繋がるが、天皇を「神聖不可侵」とした明治新政府の方針と、それが実態としてどのような構造・機能を持っていたかもまた、俯瞰的・客観的に見ていく必要がある。
例えば「戦前日本は天皇を頂点とするファシズム国家」のように見られることがあるが、それはあまりに物事を単純化し過ぎており、何の説明にもなっていない。というのも、天皇をそのような存在として対民衆に打ち出したことは事実だが、実態としては天皇を「輔弼」するとされた政府運営陣を選定していたのは主に元老と呼ばれる超法規的存在であり、「天皇が何でも好き勝手にできた」かのように見るのはよくある誤解だ。
これはたまさかそうなったのではなく、第二・第三の江戸幕府が登場しないよう各機関(衆議院・貴族院・枢密院etc...)の権力を意図的に分散・抑止した上で、それを元老という名のキングメーカー(たち)がコントロールしながら、そこに神格化された天皇がお墨付きを与える体制になっていたのである。まず、このような権力分散構造と、近代天皇制の顕教的側面(対民衆のプロパガンダ)と密教的側面(運営実態)の乖離を理解しない訳にはいかない(このあたりには皇国史観のイデオローグである平泉澄なども関わってくるわけだが、今回その思想面の掘り下げは割愛したい)。
その意味で言えば、当時の天皇は鎌倉幕府の摂家将軍や宮将軍にも似ている面があり(元老たちが北条家)、つまりは「神輿は軽い方がよい」という日本政治の特性をも連想させるのだが、さりとて「絶対的存在」ということになっている天皇の発言を無下にもできず、その言葉や行動が実際の政策に影響を与える場合も散見された(という点で鎌倉幕府の4代目以降の将軍たちと同一視もできない)。
一例として、昭和天皇はその教育もあって立憲君主制の枠内(君臨すれども統治せず)で振舞うことを己に課していたが、田中義一内閣の総辞職、五・一五事件の後の組閣=憲政の常道の終焉(正確には元老の西園寺公望と相談したと予測される)、二・二六事件における徹底鎮圧の方針明示など、随所でその意思を表明し、それが政治を動かしてきた(ただ、田中義一の時のように、今風に言えば「お気持ち表明」で総辞職どころか相手の寿命にすら影響しかねないという点が、昭和天皇をしてその意思表明の難しさや躊躇いにも繋がっていたようだが)。
で、戦前日本の不幸を挙げるとすれば、こういった統治システムが江戸期からの勤労を尊ぶ商人のエートス(cf.二宮尊徳)や寺子屋の普及(識字率の相対的な高さ)、あるいは整備された戸籍の存在(宗門人別改帳からの引継ぎ)などと相まって、開発独裁という形で非キリスト教圏において唯一近代化を成し遂げることに成功したし、それが日清戦争や日露戦争の勝利にも貢献したのだけれども、その仕組みを転換する契機として現れた大正デモクラシーや憲政の常道といった動きが、結局のところ震災恐慌や金融恐慌、昭和恐慌の波に飲み込まれてオルタナティブとはなりえなかった点だろう(なお、その原因は憲政会VS政友会のような政党同士の足の引っ張り合いやポピュリズム合戦によるところも大きく、外的要素にだけ問題を求めるのは不適であることも触れておきたい)。
その結果として、キメラ的政治システムのまま世界恐慌で不安定化する国際情勢の中に突入することとなり、もって満州事変のような軍部の暴走の既成事実化であったり、相次ぐテロや日本原理社による誹謗中傷など「声が大きい者たち」に引きずられる形でどんどん泥沼にはまっていったのであった(最後は元老が西園寺公望しか残っていなかった等の問題もある)。ちなみに、陸軍の統制派の方針やら近衛内閣の大政翼賛会結成といった動きは、その是非はともかく、かかる体制からの脱却と国力強化を目指しているが、いずれも失敗に終わっている(「未完のファシズム」)。
以上からすると、先にも述べたように、「戦前日本は天皇を頂点とするファシズム国家」とみるのは、システム理解の点では完全に誤りであり(民衆の立場からそう見えていたと評価するのは間違っていないが)、むしろ中心を欠いた巨大な空洞の中で、一度歯車が動き出すと止まらない無責任体制(©丸山真男)こそが、その本質であったと見るべきだろう。
こういった理解を踏まえると、戦前の日本のあり方を真に反省・改善しようとするのなら、単に「軍部が悪い」などと言っていれば済む話ではなく、その仕組みそのものを理解して実態に反映させることが必要と言える。逆にこれが行われないのならば、結局本質は戦前と何も変わっていないのであり、その瑕疵の表れ方こそ違っていても、「歴史は繰り返さないが韻を踏む」の言葉通り、将来的に大きな悲劇をもたらすことは十分ありうる。
・・・といったことを考えつつ、隠岐神社を後にした。
ほう、第一の鳥居ってこっちにあったのね。なんか裏道から侵入した感じで妙な気分だわw
まあ当初のダイナミック参詣スタイルよりはマシかw
ちなみにバスも走っておりマス。ちなみにこの謎のフォルムは、ナンジャモ、じゃなかった「キンニャモニャ」という民謡で使われるしゃもじらしい(・∀・)
まあどうしても本数は少ないので、天気が悪くなければレンタサイクルで来た方が時間に縛られなくていいかもね。
最後に後鳥羽の忠魂碑を撮影。
ほな次の目的地に向かいますかね。
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