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さすらいの探偵が登場しそうな神社を訪れた後、少し車を走らせると資料館や史跡が集まっている中里に到着。目の前にあるのは「流転の梵鐘」と名付けられた鐘で、15世紀末に寄贈されたものだが、海賊によって略奪されており、現在あるのはレプリカだそうな。
そこに少し目を向けた後、入館。近くの村上家資料館と共通券もあるが、時間が限られており、慌てて展示を見るのも嫌なので、あえてこちらの券だけ購入する。
で、少し先に進むと・・・
後鳥羽はわかる、隠岐もわかる、でも・・・鬼滅は意味不明でしょっっ(サクラ並感)!!
まあ『逃げ上手の若君』については、承久の乱で朝廷をバチボコにした北条の末裔という意味でも、後には足利政権を共通の敵として後醍醐側と手を結ぶという点でも、大変皮肉というか、歴史のエスプリが効いて良いと思いますですハイ(・∀・)
実朝亡き後、後鳥羽側は幕府へのイニシアチブを握るため、義時討伐に打って出たのだが、御家人たちを糾合することに成功した鎌倉幕府の進撃・急襲により、朝廷側の全面降伏に終わったことはよく知られている通りだ(綸旨の討伐対象が義時だったこともあり、幕府全体というよりはむしろ、北条家の中心人物を打倒することで幕府人事などに介入し、もって幕府の主導権を後鳥羽側が握ることを狙っていたものと思われる)。
この時点では、実朝に所縁のある摂家将軍を迎えることで何とか体裁を取り繕おうとしていた北条側であり、率直にいって彼らが幕府をコントロールする正統性は薄く(頼朝の妻である政子が尼将軍として君臨してはいたが)、せいぜい「実効支配」くらいの表現が適切だったと思われる。
ここで、もし仮に摂家将軍の請願をのらりくらりと躱しつつ、そのうち政子が亡くなっていたらどうなっていただろうか?比企氏や和田氏の勢力は大きく削ぎ落とされていたものの、三浦氏や安達氏のような有力御家人は残っており、その中で北条氏が政権をグリップする正統性を失っていくと、内部分裂が深刻化し、内紛の火種があちこちに蒔かれることになったのではないか?というか、北条氏が承久の乱に勝利して得宗専制を敷いた実際の歴史でも宝治合戦(北条氏による三浦氏排斥)や霜月騒動(平頼綱らによる安達泰盛一派排除)などが起こっていることを思えば、この拡大版が連続して起こる可能性は十分あったのである。
このような政権の不安定化を意図的に作り出し、そこに武力ではなく政治(離間策)という形で溝を拡大させ朝廷の影響力を強めていく…こういった、朝廷によるいわば「判定勝ち」のような形に持ち込むことが、後鳥羽側の勝ち筋だったのではないかと思われる(もちろん、歴史にifは禁物というように、これが単なる後知恵であることは断っておきたい)。
しかし、後鳥羽の義時追討綸旨発布による圧力と実力行使で北条主導の体制を瓦解に追い込む狙いは完全な裏目に出た。というのもこれを、北条政子は「幕府を滅ぼせという命令」に巧妙にも置き替えて北条氏の危機を御家人の危機に読み返させ(つまり我が事とさせた上で危機感を煽り)、さらにそれに立ち向かうのは「頼朝から受けたご恩に報いる行為」として感情面でも揺さぶることで、むしろ義時追討の綸旨を幕府団結の依り代に転じる離れ業をやってのけたのである(彼女のかかる政治的センスは、どう控えめに言っても天才的としか評しようがない)。
結果はご存知のように幕府側圧勝で終わった訳だが、極めて重要なことは、ここでの勝利が北条家による政権主導に実態的なお墨付きを与えた、ということだろう。つまり、あくまで諸々の政争の中で、かろうじて頼朝夫人という関係性から創始者に繫がっていたに過ぎない外戚北条家が、「御家人を統合して幕府を圧倒した」という事実をもって、その支配に一種の正統性を帯びるに到った、ということに他ならない。そしてそれは、後の両統迭立という形での朝廷介入であったり、あるいは元寇に対する国土防衛という経過を経て、得宗専制の確立へと繋がっていくのである。その意味では、後鳥羽側が起こした承久の乱こそ、むしろ北条家による長期支配(と言って語弊があるなら政権コントロール)を可能にした、最も重要な出来事だったと言えるのではないだろうか(まあ極めて皮肉なことではあるが)。
そして時に「なぜ北条家は将軍にならなかったのか?」などという問いがなされるが、それは今では理解できない家格を軸にした世界観(後代の足利や徳川ですら源氏との連続性を強調・僭称しているのに、北条家に一体何の正統性があるというのか)も去る事ながら、「実効支配の危うさ」をこれまでの政争も踏まえて北条氏が正しく認識・継承してたからこそ、むしろ賢明にも将軍職を狙いなどしなかったのだ、と評価することができるのではないだろうか(そもそも北条氏自体が名越流や極楽寺流のように一枚岩ではなく、例えば「逃げ上手の若君」=北条時行の祖父である北条貞時は、その在任時に得宗専制を強化しようとした結果、北条内の敵対する一派の逆襲に遭って手痛い政治的敗北を喫し、以降は政治に興味を失うことになった。こうして時行の父である高時の時代には、執権すら傀儡的存在と成り下がっていたのである。なお、この時代の家格の認識に疑問を感じるなら、現代の日本政治においてさえ、なぜ二世・三世がこれほど多くいるのか、と問うてみればよいのではないか)。
とか何とか考えつつ、展示を見て回る。展示物は後鳥羽の置文などで構成されておりなかなかに興味深いのだが、
最も印象的なのは奥まったところにある刀剣だった。
備前長船のような中世の業物でこそないが、後鳥羽の来島800年を記念して作られた奉納刀ということもあり、その鮮烈な存在感は強く印象に残るものだった。
30分ほど見学し、次なる目的地へ。
こちらは船を繋ぎ止める「網掛けの松」。明治まではこちらが使われていたが、この奥が後鳥羽関連の居所だったため、鎌倉時代当時も使用されていたものと思われる。
美しく清掃された石畳には芸術性すら感じる・・・ってあちこち破損してますが😅
ただ、かなり意を用いて整備されていることは疑いなく、来訪者が思わず襟を正さずにおかないような雰囲気を作り出すことに成功しているように感じられた。
奥に進む途中で後鳥羽の火葬塚跡あり。
石囲や石畳などが綺麗に残っているからか、今もなお使用されているかのような印象を与える。
ここでゆっくり時の流れに身を任せてみるのもいいが、あいにく車の返却時間に追われているので、次は近くの隠岐神社に移動するぞなもし😅
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