「ひぐらし真相の批判へ向けて」において今までの主張を概観しましたが、ひぐらしには(様々な意味で)推理要素が色濃く含まれており、「最初からホラーゲーム」だとか「推理するものではなく物語だ」といった主張が誤りであることを示すことができたと思います。ここにおいて、推理の質への批判に対して「それはひぐらしの本質ではないから」と言うような逃げは打てなくなったわけです。
そこでこれからは、推理の質について…具体的に言えば、皆殺し編のような真相に到れるか?そしてそれを証明できるか?という観点で論じていきたいと思います。さて、以下に引用する記事はかなり辛らつで、人によっては不快にさえなるでしょう。その原因の一つは私の書き方の拙さにあるのですが、その他にも問題意識が共有できていないことも大きな影響を及ぼしていると思います。表現方法はともかく、主張の内容は今でもそれほど変化していないので、今回は問題意識を共有するための軸を提示した上で、次回より違った表現方法で主張を展開していきたいと考えています。さて、その軸とは以下の二つです。
1.公式掲示板の存在
もし私の論じ方(例えば証明不可能性etc...)に違和感があるとすれば、それは私が公式掲示板で推理を披露して認められるか、証明できるかを意識しているからでしょう。もちろん、「掲示板など見ないで一人で色々考えながらプレイしていた」という人もいると思いますし、私はそのやり方を否定しようとは思いません。しかし、あくまでひぐらしそのものを批判していく際、この公式掲示板という要素は絶対に外せないのです。というのも、公式とあるようにその掲示板は製作者側が作ったものであり、その存在及びそこでの議論がひぐらしの人気拡大に及ぼした影響はかなり大きなものと予想されます(ある意味では症候群製造器だったわけですがw)。であれば、推理という観点で真相を評価する場合、ドグマで通用する個人の脳内という範囲を超えて、他者にそれを論理的に証明できるか、認めさせることができるか、というレベルで考えべきではないでしょうか。開かれた空間で他者に証明できない、受け入れられない考えを声高に主張してはばからない人間…その内容が「疑い」なら、一般的に被害妄想などと呼ばれるものです。私達は、否定的に描かれている症候群に陥らなければ真相に到れないのでしょうか(つまり、本編では信頼の重要性が主張されていますが、深刻な自己矛盾に陥っているのですね。まあこれも隣人への信頼と国家への信頼は同一なのか、という議論を生み出すわけですが…)?だとすれば、そのような真相とは価値があるのでしょうか?……とまあそんな具合に論を展開していきます。ちなみに題名は「メガロマニアは国家陰謀の夢を見るか?」ですw
2.全てが説明可能(であるべき)とは考えていない
「科学性と宗教性の二項対立」というような両極端な視点での批判は目指していません。「人為100%VSオカルト」への態度がそれを具体的に示すでしょう。以上、少し長くなりましたが原文をどうぞ。
<以下原文>
皆[殺し]編おもちゃ屋の部活で梨花が魅音のくじ引きに対してもらした感想は、ひぐらしの推理全体に関する見解として興味深い。まずそれを引用してみよう。
どういう仕掛けで、どういう風に入れ替えているのかは見抜けないが、そういう結果になる「過程」を通しているのは間違いない。…こういう時、その「過程」が具体的にどうであるのかを知る必要はない。どういう目的で、どういう結果をもたらそうとしているかだけで充分だ。
で、オレの感想。「ふざけんな」。そしてここから、ひぐらしの推理の「質」を論じることにしよう。
結果から見て「推理ものというより物語」だとか「ホラー小説」などと言い、ひぐらしの推理の「質」を論ずるのに異を唱える人がいるが、まったく馬鹿げていると言う他ない。なぜそこまで言えるのか?二つの理由がある。軽いほうから言うと、思い出してほしいのは、「惨劇に挑め。」「正答率1%」の煽り文句。これにより、ひぐらしは推理することを強く求めるゲームだったのは絶対に否定できないのだ。いやむしろ、単なる読み物として見ていた人の方が本質(※)から遠ざかっていた、と言えるだろう(出題編のお疲れさま会の内容を想起せよ)。
※本質とは、端的に言えば「書かれている内容から読み取れるもの」を指す。ひぐらしを推理モノではなく物語として見ていた人は、それを無視あるいは軽視している点で、本質からむしろ遠ざかっていると言えるのだ。
以上のことから、「ひぐらしは物語で推理モノとして考えるべきではなかった」という見解は、ひぐらしを肯定するために真実から目を逸らしているだけだと言わざるをえない。ここから、皆編で提示された真相を、結果からではなく、あくまで当時の我々が推理可能であったかという基準で考えてみたい。
推測するだけなら真相に近いところまで行き着くのは不可能ではなく、実際、犯行を実行するグループがいると推測していた人もいた。また私自身も、『私的捜査ファイル』を読んだ後で「国家が犯人ということはないか」と考え、過去にあったダム推進派と国家の癒着関係を隠蔽ないしは清算するための連続怪死事件ではないかと推測したこともあった。というのもそうすると、一見ダム推進に関係なさそうな北条叔母にも、「癒着の証拠になる北条夫妻の通帳を持っていたから」という殺害理由が生まれると考えたからであった。
このように、集団や国家という結論が出てくること自体は必然的なことだったし、またそれゆえに、そういう結論や急展開があったとしても、それほど驚くべきことではなかったのかもしれない(罪編が緩衝剤になってもいたし)。しかしそれでも、私はやはり納得できなかった。その理由は、「ほとんど何でもありじゃね?」と思ったからである。例えば、大石と熊谷の二人を葬り去るのに単独犯だと無理なことは容易に看破できる。しかしだからと言って、暗視スコープやら高性能ライフルやらもありだとするのは別次元の話ではないだろうか?
それゆえ祟・皆編に関しては、はっきり言ってアリバイや死亡時間に大した意味が無い(このあたり目編と好対照)。さらに言えば、個人の戦闘能力を論じるのもほとんど無意味だ。ここで試みにその推理を祟編の段階(ここ重要)で公式HPやらブログやらに上げてみた時のことを想像してみるといい。おそらく「その推理だと何でもありですね」と一蹴されたことだろう。人からそんな風にしか反応されない真相ってどうなんですか?私は正直推理として破綻していると思う。ひぐらしが物語であると懲りずに弁護する人がいれば、物語としても破綻していると言ってやろう。
そこでこれからは、推理の質について…具体的に言えば、皆殺し編のような真相に到れるか?そしてそれを証明できるか?という観点で論じていきたいと思います。さて、以下に引用する記事はかなり辛らつで、人によっては不快にさえなるでしょう。その原因の一つは私の書き方の拙さにあるのですが、その他にも問題意識が共有できていないことも大きな影響を及ぼしていると思います。表現方法はともかく、主張の内容は今でもそれほど変化していないので、今回は問題意識を共有するための軸を提示した上で、次回より違った表現方法で主張を展開していきたいと考えています。さて、その軸とは以下の二つです。
1.公式掲示板の存在
もし私の論じ方(例えば証明不可能性etc...)に違和感があるとすれば、それは私が公式掲示板で推理を披露して認められるか、証明できるかを意識しているからでしょう。もちろん、「掲示板など見ないで一人で色々考えながらプレイしていた」という人もいると思いますし、私はそのやり方を否定しようとは思いません。しかし、あくまでひぐらしそのものを批判していく際、この公式掲示板という要素は絶対に外せないのです。というのも、公式とあるようにその掲示板は製作者側が作ったものであり、その存在及びそこでの議論がひぐらしの人気拡大に及ぼした影響はかなり大きなものと予想されます(ある意味では症候群製造器だったわけですがw)。であれば、推理という観点で真相を評価する場合、ドグマで通用する個人の脳内という範囲を超えて、他者にそれを論理的に証明できるか、認めさせることができるか、というレベルで考えべきではないでしょうか。開かれた空間で他者に証明できない、受け入れられない考えを声高に主張してはばからない人間…その内容が「疑い」なら、一般的に被害妄想などと呼ばれるものです。私達は、否定的に描かれている症候群に陥らなければ真相に到れないのでしょうか(つまり、本編では信頼の重要性が主張されていますが、深刻な自己矛盾に陥っているのですね。まあこれも隣人への信頼と国家への信頼は同一なのか、という議論を生み出すわけですが…)?だとすれば、そのような真相とは価値があるのでしょうか?……とまあそんな具合に論を展開していきます。ちなみに題名は「メガロマニアは国家陰謀の夢を見るか?」ですw
2.全てが説明可能(であるべき)とは考えていない
「科学性と宗教性の二項対立」というような両極端な視点での批判は目指していません。「人為100%VSオカルト」への態度がそれを具体的に示すでしょう。以上、少し長くなりましたが原文をどうぞ。
<以下原文>
皆[殺し]編おもちゃ屋の部活で梨花が魅音のくじ引きに対してもらした感想は、ひぐらしの推理全体に関する見解として興味深い。まずそれを引用してみよう。
どういう仕掛けで、どういう風に入れ替えているのかは見抜けないが、そういう結果になる「過程」を通しているのは間違いない。…こういう時、その「過程」が具体的にどうであるのかを知る必要はない。どういう目的で、どういう結果をもたらそうとしているかだけで充分だ。
で、オレの感想。「ふざけんな」。そしてここから、ひぐらしの推理の「質」を論じることにしよう。
結果から見て「推理ものというより物語」だとか「ホラー小説」などと言い、ひぐらしの推理の「質」を論ずるのに異を唱える人がいるが、まったく馬鹿げていると言う他ない。なぜそこまで言えるのか?二つの理由がある。軽いほうから言うと、思い出してほしいのは、「惨劇に挑め。」「正答率1%」の煽り文句。これにより、ひぐらしは推理することを強く求めるゲームだったのは絶対に否定できないのだ。いやむしろ、単なる読み物として見ていた人の方が本質(※)から遠ざかっていた、と言えるだろう(出題編のお疲れさま会の内容を想起せよ)。
※本質とは、端的に言えば「書かれている内容から読み取れるもの」を指す。ひぐらしを推理モノではなく物語として見ていた人は、それを無視あるいは軽視している点で、本質からむしろ遠ざかっていると言えるのだ。
以上のことから、「ひぐらしは物語で推理モノとして考えるべきではなかった」という見解は、ひぐらしを肯定するために真実から目を逸らしているだけだと言わざるをえない。ここから、皆編で提示された真相を、結果からではなく、あくまで当時の我々が推理可能であったかという基準で考えてみたい。
推測するだけなら真相に近いところまで行き着くのは不可能ではなく、実際、犯行を実行するグループがいると推測していた人もいた。また私自身も、『私的捜査ファイル』を読んだ後で「国家が犯人ということはないか」と考え、過去にあったダム推進派と国家の癒着関係を隠蔽ないしは清算するための連続怪死事件ではないかと推測したこともあった。というのもそうすると、一見ダム推進に関係なさそうな北条叔母にも、「癒着の証拠になる北条夫妻の通帳を持っていたから」という殺害理由が生まれると考えたからであった。
このように、集団や国家という結論が出てくること自体は必然的なことだったし、またそれゆえに、そういう結論や急展開があったとしても、それほど驚くべきことではなかったのかもしれない(罪編が緩衝剤になってもいたし)。しかしそれでも、私はやはり納得できなかった。その理由は、「ほとんど何でもありじゃね?」と思ったからである。例えば、大石と熊谷の二人を葬り去るのに単独犯だと無理なことは容易に看破できる。しかしだからと言って、暗視スコープやら高性能ライフルやらもありだとするのは別次元の話ではないだろうか?
それゆえ祟・皆編に関しては、はっきり言ってアリバイや死亡時間に大した意味が無い(このあたり目編と好対照)。さらに言えば、個人の戦闘能力を論じるのもほとんど無意味だ。ここで試みにその推理を祟編の段階(ここ重要)で公式HPやらブログやらに上げてみた時のことを想像してみるといい。おそらく「その推理だと何でもありですね」と一蹴されたことだろう。人からそんな風にしか反応されない真相ってどうなんですか?私は正直推理として破綻していると思う。ひぐらしが物語であると懲りずに弁護する人がいれば、物語としても破綻していると言ってやろう。
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