先日「『癒し』のバイオポリティクス」という記事を書いたが、私はAIと呼ばれるものにそれほど期待している訳ではない。AIは「人間を超える」とか「人間のコピーができる」などと言われたりするが、そもそも「人間とは何か?」について幾多の不明点が山積している状態(そもそも脳の構造には謎があまりに多いし、幻肢痛、認知的不協和の構造、なぜ人間の死角は現行のものになっているのか・・・など例を挙げればキリがない)でそんな言辞を弄するのは愚の骨頂であると思うからだ。
しかし一方で、人間の人間に対する期待値は低減していき、いずれはAIへの期待を下回っていくだろう、と私は考えているのだ。
こんな例で考えてみよう。アプリケーションの機能が向上すればするほど、人間が詳細を理解してアウトプットせずとも、正確に作動するようになる(典型例は検索エンジンの検索候補)。そうなると、漢字を書く習慣が減れば漢字を忘れやすくなるのと同じことで、インプットとアウトプットの習慣が減り、その能力は減衰する。
かかる状況において、例えば職場ではどのようなことが起こるか。仕事を教える側は例えばこんな感じだ。「えー!?こんなに詳細に条件設定をして過程の説明もして、エラーをしないかチェックして、モチベートの変化で仕事の波が出ないか注意し続けないといけないなら、人間よりAIの方がよくね?」と。そして「AIなら毎年アップデートできるから定期的に成長も見込めるし、何より辞めないから投資コストが無駄にならないしね」と思う訳である(言うまでもないことだが、これは教えられる側にも言えることで、「あいつ余計な情報を交えながら喋るから説明がわかりにくいわ」とか「なんでそんな肝心なことを事前に言ってねーんだよ!」など出てくるわけで、「もうAIによるOJTをメインにして、あとは最後の仕上げに対人のロールプレイやって終わりでいいんじゃね?忙しくてそんな暇ねーわとかで放置されるこっちの身にもなれや」という思いを抱くことであろう)。
このようにして様々な場面で人間の「劣化」が生じ、それと反比例するようにAIというものへの期待が膨らむ(そして「自由意思でAIの『奴隷』」になるわけである)。そういう背景を踏まえると、AIが人間を超えるか否かの議論に拘泥するのは愚かで、繰り返しになるが、それが人間というものへの期待値の減少とパラレルであることを理解し、その幻想をどうマネージメントしていくかというプラクティカルな議論をこそ(現状に掉さしたいなら)すべきだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます