ゆく年、くる年、AIの年

2023-12-25 11:25:44 | AI

 

 

早いもんで、あと一週間で今年も終わりっすね~。まあそんなわけで、最近進化が加速しているAIに関する対談でも見てみましょうかね。というか、落合陽一と東浩紀って自分の中ではなぜかよく対談している認識なんだけど、どうも結構久々らしい。

 

というか、2023年はAIの躍進が極めてわかりやすく認識された1年だったよね。Stable Diffusionのレベルなら、「なんか便利そうなのアプリができたね」ぐらいで一般には思われたかもしれんけど、ChatGPTの進化でもうあからさまにフェーズが変わったことが認識されるようになったよと。

 

一方で、その作り手たる人間(社会)の側はというと、ますます分断と混迷が可視化した一年でもあった。これは継続するウクライナ戦争はもちろん、パレスチナ情勢の悪化とその背景などが象徴的だが(むしろ20世紀に戻った感じ)、このカオスの中で来年は色々な国で選挙が行われるという状況のため、連鎖爆発みたいなことが起こる可能性は十分にある。また、日本においては特に閉鎖性と過剰適応という問題がそこかしこで見られた一年だったと言える。それはジャニーズ問題、大手マスメディアの腐敗、宝塚の組織構造、「今さらやめられない」大阪万博などだが、年末でもダイハツに絡む不祥事が起こり、これが様々に波及する可能性がある。

 

まあ端的に言ってしまえば、「多少問題含みでも、人間社会はこれからどんどん豊かになっていき、多様化・複雑化はするけれども色々な人が生きやすい社会になっていくはずだ」という成熟社会が背負ったぼんやりとしたイメージは、急速に足元がグラついているという感じだろう(まあさすがにフランシス・フクヤマ的な「歴史の終わり」がごときものを大真面目に信じている人は少なかっただろうけど)。

 

で、ものすごい乱暴に書くと、他者と共生するために微調整の努力をしようとするのは、対象がそれなりに話の通じる相手で、かつそうするメリットがあると思うからであって、不透明性が一定以上の水域になれば、関係性を築くこと実りよりも、そこに踏み出す労力やリスクが目に付き、もはや対話を断念して不信・拒絶という名の石つぶてを投げ合うようになる(ここまで極端な話ではないが、先日書いた「AED、訴訟リスク、善きサマリア人の法」は、そうして他者と前提が共有できない中で、どう公共性のある仕組みが構築できるのか、という志向=リベラルアイロニズムを元に議論を展開しているつもりである)。そしてそのような状態と並行してAIが急速に発達していることが極めて重要なのであって、前から「あくまで合理性を追求するなら、いらなくなるのは人間だ」と言われていたんだけれど、いよいよ実感としてそう思う人間が増えていけば、もはや今の社会システムが維持できなくなるのは想像に難くないだろう。

 

まあこういう事態を、AIの「進化」と(反比例して進む)人間の「劣化」、という風に自分は表現してきたわけだけど、この動画でも概ねそういう話が展開されている。

 

ただ、これを議論する時に注意すべきなのは、「世の中はある方向に統一的に動く」かのように措定してしまうことなんだよね。おそらく最も重要なのは、「もう人間じゃなくて全てAIでええやん」という人間もいれば、「いやワイはあくまで対人にこだわる」という人もいて、その両極を軸にグラデーションができていく中で、その人間観や家族観なども含め、分断がいっそう深刻化していくことにすべきではないだろうか(わかりやすく言えば、政治的判断とAIなんかはよく議論されているが、他にも「AIをパートナーとして是認するか否か」といったことも含まれる)。

 

思えば成熟社会(後期近代)は、近代の人権思想が国民国家や資本主義を背景にしながら、(実態としてはともかく理念的には)より普遍主義化していく中で形成されてきた。そのようにして「平等」の思想はある意味広がったし、確かに遠く離れた地域の人々が自分と同じような趣味・嗜好をもって暮らしていることが可視化されるようにもなった。しかし同時に、共同体の解体が進んでもはや隣人ですら不透明な存在=異形となる事態も進んでおり、そうしたリゾーム(液状化)現象の中で、もはや自分の所属するコミュニティというか、「我々」の範囲も急速に流動化している、と言える。

 

これはウォール街占拠運動、ブレグジットにおける国内対立、日本で言う「上級国民」など枚挙に暇がないが、よくよく考えてみれば20世紀前半より前はそれが社会の常態だったのであり(貴族と平民、宗主国と植民地etc...)、あくまで20世紀後半における中間層の成長と人権思想・平等思想の広がりがそれを乗り越えたように見せかけていただけ、と表現するのが正確だろう。この辺は以前毒書会で読んでいたマンハイムの『イデオロギーとユートピア』でも似たような問題系が出てくるが、あるいはその一環としてマルクスとトクヴィル両方の要素を見ていくことが必要だ、とも言えるかもしれない。

 

ともあれ、こういった状況の中でAIの技術的進化はどんどん加速していくため、より多くの人にとって「AIはレベルの高い合格点をオールウェイズ出してくれるように」なり、人間というタグのついたノイズだらけの存在とわざわざ関わることは控えようとする傾向は強まっていくだろう(もちろん、AIは魔法ではないので、期待通りの効果が得られないので仕組みを使うのは止めるとか、その弊害に関する指摘やらが出てきたりなど、一定程度の反動が起こることまで想定内である)。

 

そうすると、あくまで「人間>AI」として生活圏へのAIの闖入を抑え、あくまで対人での関係性を重視する志向性を持つ人々でも、対人コミュニケーションに期待しない・そのスキルを磨かない人間たちの割合が増えていくことで、必然的に対人関係で実りを得ることのハードルが上がっていくため、そういう人たちの中からも「AI転向組」が増えていくことが予想される(これは携帯電話の普及などをイメージするとわかりやすいか。携帯電話が一定程度普及すると、それまで持たないようにしていた人たちも、持たないことでの不便さが高まってきて、その結果信条を変えて所持する人が増えていく、という具合に。ただ、携帯を持っているとは言っても、あくまで通話ができるだけのものを所持している人と、私のようにそれで移動時は常に調べものをしたり動画を見たりしている人という具合に、コミットの仕方は大きな差異があることも注意が必要)。

 

このようにして、AIの発達が単線的に人間を変えるというよりはむしろ、「AIによって人間の分断が加速することで、人間への期待値も減衰し、結果としてAI依存がさらに強まる」という構造が生じるのであり、そのような社会変化がここ10~20年で観察されるのではないか、と思う。

 

というわけで、来年の毒書会では「人間と労働」や「他者性と共生」といった観点も含め、アーレントの『人間の条件』を取り扱う予定だが(てか『科学革命の構造』についてまだ何も書けてない!)、例によって詳細なスケジュールは未定なので、時間を見つけてしっかり準備をしていきたいと思う所存である。

 

・・・とか書いてると鬼に笑われそうなので、ワンミニッツでイナフだと証明するために今から『つっぱり桃太郎』を買いにいきマス(・∀・)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 贈与、推し活、搾取システム | トップ | フランダースのゴルゴン:ロー... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

AI」カテゴリの最新記事