この世界の片隅に:ノベルス版の「痛み」がもたらすもの

2017-07-17 12:27:09 | 本関係

もうすぐDVDが発売という時期にノベルス版の話を書くのは今さら感があるかもしれないが、この作品を語る上でノベルス版独自の描写は極めて重要だと思うので、この機会に触れておきたいと思う。

 

ノベルス版を購入した動機は、原作では暗示にとどまる箇所が文字化されることで、いくつか気付ける部分があるかもしれないという原作の補助的な意味合いしかなかった。そして確かにその期待した役割も果たしてくれたのだが、原作にもアニメ版にもない周作の伯母夫婦の会話、すなわちすずが周作の結婚相手に選ばれるに到った経緯を読み、愕然とするとともに強い「痛み」を覚えたのであった(それがどんなものであるかはノベルス版を実際に読んでいただきたいので伏せておく)。

 

もちろん、原作にだって「代用品」という強烈な言葉が出てはくる。しかしそれでも、特別な存在=白木リンと同時に(わざわざ引っ越した実家を探し当てるくらい)特別な存在=北條すずという図式を思い描き、それにもかかわらず選ばれた側=すずには「代用品」と感じられてしまうというすれ違いの悲劇なのだ、などと考える余地が残っていたように(少なくとも私は)思う。だがノベルス版で描かれた真実は、そのような夢想を完全に打ち砕くものであった。そう、北條すずはまぎれもなく「代用品」として選ばれたのだ・・・

 

そこで明かされる経緯を単に「酷い」とか「人を何だと思っているんだ」と怒るのは容易だが、私には表面的な反応のように感じられる(余談だが、すずが足の悪いサンに代わる「家内労働力」として迎え入れられたことは原作でも割と明示されている。それは当時の女性の一つの実態であったとともに、「平凡倶楽部」の中で作者自身の来歴・筆致が垣間見せる「イエ」というものへの透徹した、あるいは突き放した認識が反映されているように思える)。

 

 私がそこで感じた「痛み」は、高校3年で読んだ「あさきゆめみし」で描かれる紫の上の苦悩を見た時のことを思い出させる。彼女は、女三宮を源氏が妻に迎えることを知った時点で、自分の立場云々以上に、自分が「代用品」であったことに気づく。それまで彼女は源氏に「理想の女性」として養育され、周囲からも源氏の寵愛を最も強く受ける存在として尊敬・尊重されてきた。しかしそれは源氏が追い求める存在の代わりでしかなかったと気付いたことにより、全てが反転する。自分は交換可能な存在でしかなく、ゆえに今目の前にある愛情も尊崇も全てが空虚なものでしかない(ここにいたっては、その相手が心から自分にその感情を向けていることは認識したとしても、この交換可能性の「痛み」を減じる効果には全く繋がらない)。しかも、彼女は源氏の庇護を受け、その望むように生かされ、生きてきたがゆえに、今以外の生き方を知らず、そこに望みをかけることすらできない(ここには、そもそも選択肢自体がほとんど存在しないゆえの地獄がある)。だから、彼女としては出家を望むという選択肢しか残されていなかったのである。しかし、源氏はあなたが出家してしまったら私はどうすればいいのか、と出家をさせてはくれない。さりとて彼は、紫の上の絶望の深さを理解することもないのである(まあここで気づくくらいなら、最初から女三宮を降嫁していないだろうとは思うが)。結局紫の上は悲しみの中、それでも自分を愛してくれた者たちのことを思いつつ死んでいくのだが、おそらく源氏は自分が何をしてしまったのか最後まで理解できなかったではないか。その行為が、最愛の人間のレゾンデートルを完全に否定しまうという最も残酷な仕打ちであったということを。私は当時、紫の上と源氏が亡くなる第十巻を何度となく読み返したものだが、今にして思えば「自分が交換可能な存在でしかないと知ることの絶望」がそこには描かれており、かつそれが当時の自分の思考と深く関わっていたからであろう(「私を縛る『私』という名の檻」などを参照)。

 

話を「この世界の片隅に」に戻そう。私がノベルス版で経験した「痛み」はまさに「代用品」としての交換可能性を認識することでの寄る辺なさと絶望であった(「絶望」というより世界が足元から崩落するような感覚なのだが、適当な言葉が思いつかないのでとりあえずこう表現しておく)。その後で、白木リンを想起させる歌を周作が鼻歌で歌っている(だけな)のに沈み込むすずの姿などが心を苛むとともに、それでもなお彼女が「うちはあんたのことが好きです」と周作に寄り添う場面に胸がズキズキと痛んだ。もちろんこのシーンは原作・アニメで何度も見ているのだが、そこで以前感じられた温かみや信頼、小さな決意とともに、どこか悲哀というか悲愴さの要素を感じにはいられなかったからだ(正直、面白くないという理由以外で、読み進めるのがこんなに辛く感じたのは初めてかもしれない)。そして逆に、そのような全き交換可能な存在として最初は描かれたからこそ、度々言及される「居場所を見つける」というテーマが、今までよりずっと重く真に迫るものとして受け止められもしたのであった。

 

以上のように、ノベルス版を読みその「痛み」を感じたことで、「この世界の片隅に」という作品の深みを一層知ることができたのは間違いないのが、それは「こうの史代作品」と大きなくくりにしても通じるように思う。というのも、前にも書いたように、こうのの作品には「理解しえない他者」というテーマ(対象)が一貫して描かれている。「この世界の片隅に」で言えば径子が典型例だが、一方で周作にはそのような要素がかなり乏しいように見受けられる。もちろん白木のことがあるではないかと読者諸兄は思うかもしれないが、そもそもすずは急に嫁いできて周作のことを知らないに等しいので、そこまで不自然な描写(あえて言えば「ノイズ」)とまでは感じられない。ゆえに、むしろ周作の理解しよう、寄り添おうという姿勢が強く印象付けられることになる。ここで私が思い出すのは、「ユリイカ」に西田大介との対談で、こうのが「こうのさんは周作さんのような人が好きなんですね」と言われるとこうの自身が言っていたことだ。つまり多くの読者にとっては、「周作が理解不可能な要素が少ない=信頼できる人に見える・描いている=作者はそういう人を信頼できると思っている」と感じられている ということであり、それは「さんさん録」の参平や「長い道」の主人公とは明らかに異なっているがゆえに、直感的に理解できる反応だ(繰り返しになるが、絵柄とコミカルさゆえに勘違いしやすいけれども、こうの史代は一貫して他者との断絶とそれでも繋がってしまっている現実というものを繰り返し描いている。このことは彼女の文章を読むと非常にわかりやすい)。しかしながら、このノベルス版を読むと、「ああ、周作も同じ目線で造形されているんだな」とむしろしっくりきた感がある。やはり周作も「他者」として描く構えはあり、あくまでバランスの問題としてあえて描いてないだけなのだなと理解した次第である。

 

最後に、このような原作・アニメ版とはまた違った「世界の見え方」がするという意味で、未読の方にはぜひ購入をお勧めしたい作品である。


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