「灰羽連盟:舞台設定、偶然性、実存」、「灰羽連盟:労働、記憶喪失、実存」の二つで、実存を根幹とする灰羽連盟(以下「灰羽」)が「宗教的」であるとか「青臭い」ものとして敬遠されなかった理由について考察した。さらに、後者の元となった草稿をも紹介している状況で新しく「覚書」とはこれいかに、と思われるかもしれないが、簡単に言えば記事を書くにあたってアニメを見直した時のメモである。ただ、この覚書の内容は、そもそも3年ぶりに灰羽の記事を書き始めた理由を説明しないと全く理解できないと思うので、以下で簡単に触れておきたい。
前掲の記事では始めから全てを把握していたかのように書いているが、実際にはずっと長い間評価の核となるべき部分を捉えきれていないもどかしさを感じており、あえて記事を書かないようにしてきた経緯がある。具体的に説明しよう。灰羽連盟をいつ見たのか、正確な時期は覚えていない。ただ確かなのは、これで大方の疑問は解消されるだろうと勢いこんで読んだ「灰羽脚本集」や「灰羽連盟を見る」は、むしろ全体像をぼやけさせてしまっているように感じられた、ということだ(誤解のないように言っておくが、これは考察の方向性の問題であって、ひどい内容といった意味ではない)。そして2006年の夏に、その知識を元にして本編をもう一度見たが、取り立てて収穫はなかった。
そういうわけで、作品に対する明確な評価を確立できないもやもやを抱えてはいたが、世界の設定などをあれこれ考察するのは何か違う―自分が捉えようとしているコアからむしろ離れていく―とだけは強く感じていた。2007年に「説明不足」という評価への反論として灰羽を取り上げ、「灰羽においては世界の構造を説明していないが、むしろそのことによって成功している」と書いてその後全く灰羽の内容に言及することがなかった理由もそこにある(下手にあれこれ考えたり書いたりしても余計ワケがわからなくなるだけという直感があった)。だから、灰羽について再び何か書くとしたら、数年、あるいは数十年後に(たとえば子供が生まれるなど)自分に大きな変化が訪れたときだと考え、封印してきたのだった。
ところが、一月ほど前灰羽の真の名に関するコメントをもらった時、(帰省の数時間前という事情はあったが)かなり曖昧な返答しかできなかったことが自分の中で引っかかっていた。そこで10/30に戻ってきてすぐに過去ログをいくつか読み返し、「説明不足」の記事の不明瞭さに呆れ、またEDテーマのLOVE WILL LIGHT THE WAYに関する記事で「他者の重要性」を指摘したことなどをすっかり忘れていたのに呆れた(この歌詞は、真っ先に「巣立」ったクウの真の名に孤独のニュアンスが含まれるとは考えにくい、と反論する際に絶好の材料となる。また余談だが、「灰羽連盟を見る」でも灰羽における他者の重要性は強調されている)。
まあそういうわけで、まずは「説明不足」に関する曖昧な内容をどうにかしようと思ったのがきっかけで、「なぜ灰羽は『青臭い』、『宗教的』といった理由で敬遠されなかったのか?」という視点でアニメを見直すことにした(もう一つの理由は、作中の「巣立ち」と最近よく取り上げる偶然性のアナロジー)。ただし、過去の経験から脚本集などは一切見ず、また過去ログも設定に関するものや覚書には目を通さないままで。さてその結果、第一話でその先を見る必要がないと思うくらい明確な結論が得られた。自分で覚書に「てゆうか気付けよ」と思わず書いてしまうくらいのあっけなさだった。具体的には、灰羽の世界に引き込むべく効果的に配置されたタバコやスクーターといったアイテムが、たとえば「オールドホーム=修道院」といった雰囲気を視聴者に感じさせず、また羽の生える生々しい描写は、天使=「清らか」といったイメージに反するもので、後に描かれる実存の描写を重みのあるものと感じさせるのに大きな効果を上げていることに気付いたのだ(注1)。こうなると、あとは序盤の生活臭たっぷりの描写であるとか、宗教的というか実存の悩みに埋没しそうな(?)敬虔あるいは浮世離れした雰囲気のキャラが登場しないことなどが全て一本の線に繋がった(後者については映画「接吻」に関する予定調和と緊張感の話を参照)。灰羽が前述のような理由で敬遠されることがなかったのは、全くのところ必然的な話だったのだ。3年ぶりに見てようやくそのことに気付き、改めてまとまった記事を書くことにしたわけだ。
さて、分析そのものは別の記事に譲り、最後に気付きの要因について述べておきたい。 ごくごく簡単に言えば、それは初見に近い立場で、より正確には「初見の人にはこれがどう映るだろうか」という視点で作品を見直したことにある(注2)。前掲の「労働、記憶喪失、実存」で詳しく述べているが、灰羽の実存が(それほど)違和感なく受け入れられた背景には、視聴者と灰羽たちの視点的な近さが大きく関係している。逆に言えば、ディテールへの固執はその状況からの乖離しか生まない。あえて脚本集などを読まずに見なおしたことで、図らずもそこから脱却することができた、というわけだ(「舞台設定~」の記事で、計算づくであったかどうかに一々踏み込まないという趣旨の断り書きを入れたのも、そういう事情に基づく)。そしてこのことは、なぜ脚本集などを見てももやもやとして感情が晴れなかったのか、またなぜ記事を書けば書くほど(情報量を増やせば増やすほど)本当に言いたい事から遠ざかるような気がしたか、という二つの疑問のそのまま答えとなるだろう。
では、そのような前提で書かれた覚書を次回から掲載していくことにしたい。
(注1)
「舞台設定、偶然性、実存」では、同時に井戸や風車といった懐かしいと感じさせるものを描いており、視聴者がおそらく小さい頃に見たであろう世界名作劇場的な世界イメージに繋がる云々と書いているが、それよりも「ラピュタ的な世界との近似性」といった方が適切だと思われる。つまり、灰羽の世界は、ある程度科学技術は発達しているが、しかしどこか懐かしさを感じさせる19C~20C初頭的な雰囲気を持っているのだ。また羽の生えるシーンについては、最初見た時にも二項対立(灰羽の二面性)は明確に意識していたものの、それが視聴者に与える印象にまで考察が及んでいなかった。
(注2)
これは歴史を見る視点においても重要であるが、いずれ書く予定の「ひぐらしのなく頃に」、「果てしなく青いこの空の下で」の記事(後者はネタばれ注意)でも重要なポイントになるだろう。端的に言えば、「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」というマルクスの言葉にも通じる部分があるが、二度目以降はネタにしかならない(加工され、無害化される)という話であるが、詳しくはその時に。また「偶然性、再帰的思考、快―不快」も参照。
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