言えばよろしい訳もなく

2012-03-11 17:56:43 | 生活

この前「ザンジバーランドの怪人」という記事で以下のように書いた。

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あるいは「統一的な自己」という認識に縛られている人は、単純にこのブログを本音(深層)とみなし、実際の私の振る舞いを建前(表層)と見なすだろう。つまり、両方とも素だとは考えもつかないし、ましてや会話によるコミュニケーションと文章によるコミュニケーションの(与える)効果の差異で表現内容を使い分けるといった機能主義的な発想などしない、というわけだ。
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この具体例として非常にわかりやすいのが、昨日書いた「本日のメニュー」である。そこでは、一つ一つの曲について、それを歌うor知った背景を書いているが、これを実際その場で口に出したり、相手に話したりしたらどうなるだろうか?まあ「そうなんだ」と返されるか「で、次の曲は?」となるのがオチである。なにせ二人カラオケなのだからwそれに俺としてもその場で首根っこを捕まえて言い聞かせたい話なわけでもないしなw

 

こんな具合でコミュニケーションの帰結が容易にわかるため、実際に口に出して話すことはないし、また話したいとも思わないのである。もうちょい抽象的な話をすると、会話コミュニケーションの同時性と文章コミュニケーションの非同時性(見たい時に自分のペースで見れる)という差異を意識するなら、ブログの記事が実際の振る舞い(行動・発言)と同じになる方がむしろおかしいということやね。実際のコミュニケーションでは「ノイズの排除」やら「共感」の危険性やらを話さないが、それは諦めとかシニシズムよりもむしろ、今述べたような事情があるのだよ明智くん(小難しく言うと、レディネスの作りにくさといった戦略性の問題も含まれるとかなんとか)。

 

ちなみにそれを浮き彫りにするために、あえてツイッターっぽい記事も上げたりするわけだけで、スマホに変えた今でもツイッターとブログで記事を分けない主要な理由の一つであったりするよと。

 

では、今回はこの辺で。

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