うみねこ3rd:残虐性の扱いと「キャラ」の成立

2008-10-12 23:00:01 | ゲームよろず
さて今回は、表題の問題を作者がどのように処理しているか、そこにどんな問題意識が働いているのかを考えてみたい。


<残虐性の扱い>
うみねこ第三話において、戦人がベアトの残虐性を厳しく批判しているのが記憶に残っている人も多いと思う。まあ残虐行為を楽しんでいることへの批判なので、違和感を持たなかった人が大半だとは思うが、俺はというと、第一話の直後くらいに公式掲示板に書かれたある記事を思い出した。それはすなわち「アニメ化を度外視したうみねこの内容を評価したい」という誉めているのか皮肉なのか判然としないものであったが、いずれにしてもそういう見方が正しいなら、うみねこの持つ過剰な残虐性には、「アニメ化を狙っている」といった批判を逸らす狙いが含まれていたと考えられる(もちろん殺害の手口や意味づけを考えさせる効果もある)。

このようにして過剰な残虐性が取り入れられると、今度は残虐性の扱い方が問題となってくる。というのもひぐらしと違い、うみねこには「必死であるがゆえに生まれる残虐性」とでも言うべきものが描かれておらず(※)、残虐さに対する批判が出やすいからである。そういうわけで、アニメ化狙いという批判(揶揄)の回避や推理で惑わすために過剰な残虐性を持ち込も一方で、それに対する批判を作中にきちんと入れていかざるをえないことになる(これは批判されたくないというよりはむしろ、自分の狙いを誤解されないようにするための工夫だろう)。今回のベアトへの批判も、その延長線上にあると言えるだろう。


鬼隠し・崇殺しにおける圭一の残虐性はその好例だが、うみねこにおいてそのような例はない。それどころか、第三話におけるベアト一派の戦いを見ればわかるが、必死になればかえって残虐性が低下するような印象さえ受ける。


<「キャラ」の成立とその効果>
こちらはごくごく最近の話だが、やはり公式掲示板のある記事に「どんどんキャラが増えてきてライトノベル化してしまうのではないか」と書かれていた(ここでは詳しく述べないが、ライトノベルはキャラへの依存度が高い)。「ライトノベル化」と言えばひぐらしの(最後の方)評価を思い出す人も少なくないと思うが、気になるのは作者自身がそういう評価が出てくることを意識しているのか否かである。ここで明確な根拠を示すことはできないが、ベアトがファンタジーについて自己言及していることなどを思えば、そういった形式への批判といったものを念頭に置いていないはずがなく、またルールへのこだわりから判断するなら、ひぐらしの時に出てきた批判もかなり意識していると考えるのが妥当だろう。

では、相次ぐ新キャラの登場は一体何を意図しているのだろうか?
まず間違いなくあるのは、魔法を認めさせるためである。魔法を使う者たちの増加=魔法が占める割合の増加が、魔法の存在の承認をプレイヤーに迫るものであることは言うまでもない。これは単に物語の展開という内容面だけでなく、「キャラを中心とした物語の理解」というプレイヤーの認識のあり方を上手く利用したものである。これが意識的になされていることは、第三話最後の調印式(?)におけるベアトたちの発言から明白であるのだが、それは「魅力的なキャラとして描けばそいつを認めたくなるだろ?でもそれは魔法を認めることなんだぜ?」という問題をプレイヤーに突きつけることに他ならない。とするならば、新キャラを続々登場させて彼らに魔法を使わせることは、昨今支配的とされるキャラ的想像力への挑戦という側面も持ち合わせているのではないか…とこのように考えられるのである。

この「キャラを中心とした物語の理解」は、ひぐらしにおいては、一貫したキャラを土台にしてプレイヤーが無数の分岐を想像(創造)することへと繋がっていたし(憑落し編のネタバレだが、「魅音の「不自然」な怒り」はこの問題にリンクしている)、またそのような行為を作中で明確に煽ることさえしていた。ゆえにうみねこの場合は、その認識を違った形で(誤解を恐れずに言えば)利用しようとしているのだと言える。ただ、そうすると難しいのは、第三話最後の調印式をどう評価するか、ということになる。もし利用するだけなら、黙っておいた方が都合がよいからだ(それでも、気付く人は気付くし。特にひぐらしの暇つぶしのラストとか見ていればね)。よって正確な表現を目指すなら、うみねこにおいて新キャラが次々と増加しているのは、単にキャラを中心に物語をとらえる認識を利用していると言うべきではなく、繰り返しになるがそういう認識への挑戦ということになるだろう(※)。


最後に。
ライトノベルがキャラを中心に据えた小説の典型であったことを想起するなら、そのような認識を煽ったひぐらしが(内容的にも)最終的にライトノベル化したと見なされてしまうのは必然であった。さて、ではうみねこは如何?



もっとも、これは魔法否定派に関する話であり、魔法を認めていたり細かい推理がどうでもいい人たちにとっては結局同じことだ。つまり、新キャラがどんどん出てくることは、魔法否定派にとってはキャラ中心的認識を揺さぶる挑戦となり、肯定派にとってはそういう認識を満たす材料となる。

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