私が「きっとかわいいオトコのコだから」という聖典を求めてさすらう旅人となった経緯はすでに述べた通りだが、先日その続編である「畜産編」が世に出たことを知り、二度と同じ過ちを犯さぬため早速翌日行動に出た。
その日は朝から池袋で会議だったが、終わってそのままタイガーホールへ突入。スーツ姿で「男の娘」本を買いに行くというのはなかなかにアレな行為なれど、そこは「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というやつだ(イミフメイ)。さて、マーニャモノに心引かれる自分を抑えて目的のブツを探索するも・・・なかなか見つからぬ。20分ほどして、横にして立てかけてあるのを発見。新刊の場所に置いてなかったことも含めて、あるいは冷遇されてるのやもしれぬ。もし前作も一緒に入手できたら、という淡い期待こそ叶わなかったものの、今度こそ聖典を我が手中に収めることができた。あまりの興奮に、レジの前で包装を破いて勃起掲揚をやりそうになったが、さすがにポリさんのお世話になるのはまずいので全身全霊をもって自重。
その日の仕事が終わって帰宅した際、すぐにハーネスを解いて中身を見る。ゴスロリ女の性的欲求があまりに激しく乾物になってしまった沢木を救うべく、及川、長谷川、武藤が「畜産研修」の態でゴスロリ女に激しいプレイを施すというもの。その内容といったら、落札オークションからの集団イラ〇チオという及川プレゼンツのレッドドラゴン的な一限目、次は黒き雌鶏のごとき長谷川が指導する直腸検査の二限目、さらには武藤がエンドレスに動物電流を流すというレメゲトン級の三限目と続くが、それでも満足せぬゴスロリ女を結局は沢木が五点攻めする四限目で最後となっている。
このようなマイスターたちの共演とゴスロリ女の痴態を前に腎虚にならずにいることがあろうか、いやない・・・・・と言いたいとこなんだが、実を言うとほとんどナニも感じなかった。おそらく要因は二つ。
一つ目。畜産編なのになぜ獣〇がないのかと思いますです。
二つ目。俺自身が「入れる・入れられる」描写じゃないとダメ?最後の四限目における五点攻めだけ少しキタってのもあるけど、そもそも俺は(3人組手はまだしも)乱取りになるとただ絵柄(図像)を見ているだけになってアウトなのよね。まあ飯で言ったら「食べれるけど特別食べたいものじゃない」て感じで。この傾向が影響した可能性はありえる。
まあそういうわけで、残念ながら今回は内容が合わなかったと・・・
―異議アリ!!
何だねタゴサクスキー卿?
―もし「入れる・入れられる」描写にあらざれば欲情せんと言ふのなら、「ふたなるんエステ編」で尿道オ〇ルにていぢめられている姿にエロスを感じるのはなぜでありますか?また「哀玩具少年」でマドラーにて調教される男の娘にエロスを感じるのはなぜでありますか?あなたの理論だと第一講に反応しなかったことは説明できても、後の二つでそうならなかった説明にはなりませんぞ。
いい指摘だ。確かに「ハヤテきゅん VS Sメイド」などでも同じ傾向が観測される。先の定義については再考の余地があるな。
―それだけではありません。
まだあんの?もうお腹いっぱいなんだけど。
―そもそもの問題として、あなたは男の娘について「かわいければ何でもいい」と言いましたね。
然り。
―ではなぜ、あなたは「うみねこ」のゼパルとフルフルに対して前者にだけ反応するのですか?二人ともほぼ同じビジュアルだというのに。違いは、ゼパルが男である(らしい)という設定、つまり象徴的な部分だけです。「かわいければ何でもいい」というのは、つまり「男の娘好きは単に図像の問題でしかなく、ギャップのエロス、倒錯といった象徴的次元は関係していない」というimplicationを含んでいますが、両者の反応の差異は、まさにギャップのエロスという理由によってしか説明できんでしょう。つまり・・・あなたの推論は論理的に破綻している!!!!
くく、くっくっく、、クケケケケケケケケケケケケ!!相変わらずそちは自分の足元を破壊するのが好きな男よ。 いかにもその通り。しかしそれは、「倒錯以外ありえない」というような思考的閉塞を防ぐための戦略的・・・・
とまあ延々と続きそうなので擬似公会議はこの辺にして。とりあえず当該の畜産編に関しては、期待とのあまりのギャップに「きかぬ、きかぬのだ!」とラ〇ウのように涙しつつ焚書にしたとだけ報告しておこう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます