前回「宗教と思索」を書いたことで、いささか共感の記事が理解されにくくなる可能性を危惧はしつつ、共感に関するフラグメントを載せることにする。大枠は今まで述べてきたことと変わらないが、共感幻想(心理学の定義も考えると、この表現が最も適切なのかもしれない)が実際に及ぼしている影響を色々と取り上げている。ちなみに、日本人の同一化傾向については「日本人の『無宗教』に関する一試論」も参照のこと。
<距離と共感>
スタジアムなどで実際に接していれば、偶然にせよ共感はあるかもしれないと言った(あるいは長く付き合う者同士、双子)。寒いという人間の肌に直に触れてみる。しかしテレビやゲームはどうか?距離がある、情報の少なさ。そこにおいて共感は成立するのか。少なくともそれができると期待するのは誤りだろう。むしろ逆効果。実は、理解できないのを相手のせいにする体のいい言い訳。模倣と共感…同じ行動をするのは共感か?…ごっこ遊び、「空気を読む」
※
ホフマンの「親近性バイアス」(familiarity bias)や「今ここでバイアス」(here-and-now bias)も考慮する必要がある(M.L.ホフマン『共感と道徳性の発達心理学』)。
<ファジーと共感、説明>
理解と共感…感情の部分を軽視してはいないし、ましてや無視はしてない(情念の話)。説明不足の話で取り上げたように、説明は他の可能性の排除、という側面を持っている。とすれば、より多くの人間が「共感」するためには説明はむしろ邪魔である。すると説明が削られ、ただ「おもしろい」とか「つまらない」というファジーの言葉が奨励される。ファジーな言葉…これが共感を可能にカラクリである。日本語はファジーだと言われるが、その必然性はここにあると思われる。共感とコミュニケーション能力の欠落。仲間内でしかコミュニケーションできない若者はむしろ非常に日本的なのではないか。
<個性の尊重は垂れ流しの正当化にしかなっていない>
ファジーへの反論…「心の旅」のような歌は?勝手に自分の経験と結び付けてるだけであって、共感ではありません。他に通じない「若者言葉」、そして他とのコミュが円滑に取れないとされる若者たちは、むしろ閉鎖的なムラと方言を私に連想させる。要するに、新人類であるかのように言われる「若者たち」というのは、むしろ非常に昔の日本の人々の在り方と似通った側面を持っているのではないだろうか?あるいは引きこもりなどの人々は、そういった「方言」を獲得できなかった人たちなのかもしれない。電波系もある意味では…
<自然な共感への期待は、むしろさせる>
共感が自然にできるものと考えれば、人は理解してもらおうとする努力をしない。なぜなら、その努力自体が共感という幻想を打ち砕いてしまうからである。努力の欠落は、電波系や若者(言葉)、あるいはその幻想に破れて引きこもる人々を生み出す。いじめは村八分的とは思わなかったのだろうか?いずれも新しい現象のように言われるが、実は昔の特徴を多分に引きずっている。ゆえにこれは西欧に影響されたものなどではなく、むしろ日本的なものなのだ。そしてその根源にあるのが、共感とそれに基づく排他的傾向に他ならない。
<相手はわかってくれるはずだ、という勝手な期待>
昔はそれがムラというより大きな共同体だったため多少は正当化され、今はそれが個人レベル(引きこもり、電波系)ないし小さな集団になっているため批判の対象になるだけのこと。昔と現在の対比で言うなら、かつては密な社会だっただけでなく、密なコミュニケーションから生まれる微調整の能力が存在した。しかし今は、そのようなコミュニケーションを取る機会が減っているし、あるにしても対象が(同年代に)限定されている。その結果不安定な同一化傾向だけが一人歩きしているのだ(ドラマ、アニメなど)。社会の状況に合ってない。あたかも季節が変わったのに同じ服を着続けるかのようだ。
<距離と共感>
スタジアムなどで実際に接していれば、偶然にせよ共感はあるかもしれないと言った(あるいは長く付き合う者同士、双子)。寒いという人間の肌に直に触れてみる。しかしテレビやゲームはどうか?距離がある、情報の少なさ。そこにおいて共感は成立するのか。少なくともそれができると期待するのは誤りだろう。むしろ逆効果。実は、理解できないのを相手のせいにする体のいい言い訳。模倣と共感…同じ行動をするのは共感か?…ごっこ遊び、「空気を読む」
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ホフマンの「親近性バイアス」(familiarity bias)や「今ここでバイアス」(here-and-now bias)も考慮する必要がある(M.L.ホフマン『共感と道徳性の発達心理学』)。
<ファジーと共感、説明>
理解と共感…感情の部分を軽視してはいないし、ましてや無視はしてない(情念の話)。説明不足の話で取り上げたように、説明は他の可能性の排除、という側面を持っている。とすれば、より多くの人間が「共感」するためには説明はむしろ邪魔である。すると説明が削られ、ただ「おもしろい」とか「つまらない」というファジーの言葉が奨励される。ファジーな言葉…これが共感を可能にカラクリである。日本語はファジーだと言われるが、その必然性はここにあると思われる。共感とコミュニケーション能力の欠落。仲間内でしかコミュニケーションできない若者はむしろ非常に日本的なのではないか。
<個性の尊重は垂れ流しの正当化にしかなっていない>
ファジーへの反論…「心の旅」のような歌は?勝手に自分の経験と結び付けてるだけであって、共感ではありません。他に通じない「若者言葉」、そして他とのコミュが円滑に取れないとされる若者たちは、むしろ閉鎖的なムラと方言を私に連想させる。要するに、新人類であるかのように言われる「若者たち」というのは、むしろ非常に昔の日本の人々の在り方と似通った側面を持っているのではないだろうか?あるいは引きこもりなどの人々は、そういった「方言」を獲得できなかった人たちなのかもしれない。電波系もある意味では…
<自然な共感への期待は、むしろさせる>
共感が自然にできるものと考えれば、人は理解してもらおうとする努力をしない。なぜなら、その努力自体が共感という幻想を打ち砕いてしまうからである。努力の欠落は、電波系や若者(言葉)、あるいはその幻想に破れて引きこもる人々を生み出す。いじめは村八分的とは思わなかったのだろうか?いずれも新しい現象のように言われるが、実は昔の特徴を多分に引きずっている。ゆえにこれは西欧に影響されたものなどではなく、むしろ日本的なものなのだ。そしてその根源にあるのが、共感とそれに基づく排他的傾向に他ならない。
<相手はわかってくれるはずだ、という勝手な期待>
昔はそれがムラというより大きな共同体だったため多少は正当化され、今はそれが個人レベル(引きこもり、電波系)ないし小さな集団になっているため批判の対象になるだけのこと。昔と現在の対比で言うなら、かつては密な社会だっただけでなく、密なコミュニケーションから生まれる微調整の能力が存在した。しかし今は、そのようなコミュニケーションを取る機会が減っているし、あるにしても対象が(同年代に)限定されている。その結果不安定な同一化傾向だけが一人歩きしているのだ(ドラマ、アニメなど)。社会の状況に合ってない。あたかも季節が変わったのに同じ服を着続けるかのようだ。
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