「神」と宗教、及び内省の欠落について

2008-01-27 13:37:18 | 宗教分析
仮に「神」、ないしは何らかの超越者の存在を認めても、それは特定の宗教が正しいことにはならない。

しかしながら、超越者の存在を承認することがそのまま宗教の肯定と科学の否定に繋がると言わんばかりのall or nothing的思考に縛られている人が少なくないように思える。その主な理由の一つは、学校においてこの領域がアンタッチャブルなものと見なされていることにあるのだろうが、そういった要因、あるいは無意識に刷り込まれた教義に気付かなければ両極端な思考は変わらないだろう。

結果として、科学的・理性的な社会の中で生きているという感覚を疑うこともなく、自分達の社会、何より自分自身が(実際には)いかに非科学的で宗教的かを内省することもない。せいぜい、時折クリスマスや初詣の話を持ち出して、変な国だと笑って終わりである。では、その「変な国」のやり方に従っている自分は何なのか(別に強制されてもいないのに)?おそらく多くの人が「皆がやっているからだ」と答えるだろう。それなら、マジョリティがやっていることには全て従うのだろうか?受け入れられないことも当然あるだろうから、すぐに否と答えるだろう。とすれば、変だと笑いながらも結局それを受け入れているか大して抵抗を感じていないから、クリスマスと初詣を平行したりできるのである。

実際には、そういった人々の群れ(「消極的な同調者」とでも言うべきか)が「変な」行動を正当化する「世間」、「空気」を作り出していることになぜ気付かないのか。全ての原因を集団に帰していつまでも他人事のようにしているうちは、おそらく何も変わらないだろう。自分もまたその集団を構成していることをまず自覚すべきである。

以上、主に二つのことについて述べた。
1.超越者の存在を認めることは特定の宗教の肯定にはならない
2.全てを集団のせいに帰し、内省が欠落している。
次回は、「共感」の側面から2の問題を取り上げることにしたい。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« フラグメント23:共感幻想の... | トップ | 「世間」と向き合うこと:無... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

宗教分析」カテゴリの最新記事