先ごろ初期短編集の発売された藤本タツキの傑作『ファイアパンチ』第1巻は、衝撃的な最後で幕を閉じる。過酷な生活の中で生きるために人肉を食んでいた村を、外からやってきた者たちが一瞬にして焼き払ったのである。「ファイアパンチ」という復讐と赦し(死と再生)を巡る神話は、まさにここから始まったと言っていいだろう。
以前私は、中学時代に「(そうしないと死ぬような)極限状況で人肉を食べるか?」という話が出たときに、他が食べないと即答していたのに対し、自分ひとりだけが食べるだろうと述べ、周りがそのことに驚いたという話を書いた(「嘲笑の淵源」を参照)。またその上で、これは「(条件設定が日常とは変化しているので)倫理ではなく論理の問題」だとも述べた(念のために言っておくと、「極限状況であれば何をしても赦される」という短絡的な話ではない)。
このような考えは今も変わっていないが、一方でこの表現によって抜け落ちるものがあるとも感じていた。それは苛立ちの感情だが、その輪郭が「ファイアパンチ」を読むことでより明晰になったように思える。
ここで自分の理解を整理するとこのようになる。私以外の人間(教師含む)は、日常性の範疇で考えているがゆえに人肉は食べないと即答し、逆に私の答えを訝しく思ったのだろう。そこにはまた、「そこまでして生きたいの?」という疑問が根源にあったと考えられる。
それに対する私の考えは、先にも述べたように「条件設定が変わるなら、行動様式も変わるとなぜ理解できない?」という論理の話であった(これは教育格差に関係する環境要因の話などともつながる)。
そこからさらに踏み込んで、同時に存在していた苛立ちというものの淵源をよくよく考えてみると、そのように「日常性の範疇から極限状況に倫理や道徳を適応して何も疑わない心性」、もっと言えば「そのようにして人を断罪することを当然のことと思う態度」への強い違和感があったのだろう(これは私がしばしば取り上げている短絡的な自己責任論とそれへの批判的視座ともつながる。なお、老婆心ながら言っておけば、このような視点をいたずらに「厳しい判断を迫られる状況」全般へと適応し、それへの批判的検証を封じ思考停止に陥るような愚は断じて避けねばならない)。
というわけで、必死に生きる主人公たちを己の道徳・倫理によってその背景も顧みず焼き払う者(たち)とそれへの憤りの感情は、かつて私が経験した茫洋とした感覚に明晰な輪郭を与えたのであった。
このような発見もあり「ファイアパンチ」は自分の中で座右の書となった、と述べつつこの稿を終えることとしたい。
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