フラグメント108:ひぐらしと大団円、「いい人」問題

2011-03-10 18:00:00 | フラグメント

「いい人」とは、言ってみれば「明確な悪意のない存在」みたいなものだが、それを「人畜無害」として扱うのは全くの見当違いだ・・・という話は「嘲笑の淵源」や「『共感』と再帰的思考」などですでにしたので繰り返さない。それにしても、実感が湧く範囲しか理解できないのなら、そもそもスキルのないことをさっさと認めてしまえばいいのに(不可能性の理解)と思う。いざとなったらシニカルな連中も「共感」とかナイーブな言葉に逃げるからタチが悪いのだ。相対主義が他者の引きずりおろしには作用しても自分に対しては適用されないなら、多様性とは言っても結局小さな真理に引きこもっているだけにすぎない。ゆえに俺は二次創作の流行を価値観の許容や思想の可能性へと短絡させる気にはならないのだ・・・とか言っても抽象的なので、これはまた別の機会に具体的な形で話すことにしたい。


ちなみに最後の覚書は「ひぐらしのなく頃に」の話。
これは誤解をされやすい内容だが、一つは初期において「より良くあろうとすることがさらなる悲劇を生む」という逆説を繰り返し取り上げながら、最後は結局「信じれば叶う」的ナイーブな話になっていったことへの批判、そしてもう一つは同じく初期で動員戦略を批判的に扱いながら結局カウンタープロパガンダ=同じ穴のムジナになっていることへの批判である(まあ「合理的な思考をする人間は、『空気』社会においては『空気』を否定するのではなく別の『空気』を作るように振舞うはずだ」というレベルの見地に立っているのなら話は別だが)。なるほど「善意=幸福」などという単純な図式の成立しえない目明し編までのひぐらしならば、背景にある戦争批判へも上手く繋がっただろう。しかし罪滅ぼし編以降は単に埋没の内容が違うだけでしょ、と言われても仕方がない(もっとも、そこまで考える人間がどれだけいるのかっつー話もありますが)。まあそう考えるがゆえに、俺は完全ハッピーエンドにならないと気が済まないプレイヤーの様を「大団円症候群」と呼んで冷笑的に扱っているわけだが。そいつらのナイーブな様を見てると再帰性・戦略性のない包摂は同調圧力と紙一重だ、といった危うさについてもまるで理解してねーんちゃうかと思ってげんなりする(「調和と地雷」。そしてそういう連中もたぶん「いい人」たちなんだよね~)。その態度と、例えば「八紘一宇の精神性が素晴らしかったんだからあの戦争は素晴らしかったんだ・正しかったんだ」という他者の欠落した認識とは一体何が違うんだろうと思うが、そういう反応について作者さんはどう考えているんでしょうな。とはいえ、黒幕のあり方から「信じれば叶う=素晴らしい」なんて単純な話ではない(=狂信的側面をきっちり描いている)ことをきちんと組み込んでいるあたり(作者に関して)はさすがというべきか。とまあこんな具合で大団円の問題はひぐらしの本質に関わる事項であるはずなのに、うみねこではいかなる戦略によるのか、その否定が単なる天の邪鬼的な態度として貶められているのは非常に残念なことである。まあひぐらしとうみねこはそもそも方向性が違うんで、と言ってしまえばそれまでなんだけどね。


ちなみに俺は、罪滅し編以降取りざたされる雛見沢症候群やら謎の組織の厳密性、あるいはリアリズムについてはそこまで興味がない。逆に、そこを重視する人たちがなぜそういうスタンスを取るのか知りたいと思う。単に現実との関連性を話題にするのなら、「この物語はフィクションです」で終わりだ。あるいは単に緻密な話が好きというのなら、それは趣味の問題だ・・・と言ってピンとこなければ、俺がかつて戦闘力のリアリズムを問題にしたのは、それが「殺人の否定」という作品の根幹をなすテーマに関わる事項だったから、と言えば多少はわかりやすくなるだろうか。別にレナや圭一が機動隊たちを見惚れさすようなありえない戦闘力を示したとしても、それ自体は別に批判されるべきことではないのだ(いちおう罪滅し編の圭一VSレナの描写をもって「非リアリズム宣言」と見なすことも可能なのだが、その割に以降の描写は中途半端で成功しているとは言い難い。まあせいぜいTYPE-MOONのオマージュレベルである)。というか極端な話、そんなに厳密性が大事なら虚構などには目もくれず専門書だけ読んでればいいんじゃないかなと思うが如何?と「史実」がどのように改変されるかに興味がある俺は思ったりする。

・・・っとこれ以上書くと普通に一つの記事になってしまいそうなので、ここで止めて覚書に移りたい。

 

エセ漢文とアーキテクチャー
このブログでは数十単位のエセ漢文を載せているが、その意図は様々である。例えば「淫愚」はマニアックなエロアニメへのマニアックな突っ込みが読む人に理解不能(グリークトゥー)ということを示す。当たり前のことが何だか重々しい内容に見えてくる(漢字のイメージ、記号性)。意味の二重、多重化。全角では250字しか入らないという携帯メールの制約とそこに多くの情報をブチ込むための苦肉の策。演出よりアーキテクチャーが形態を規定。

 

<信頼の醸成>    「ひぐらし」、「ヒトラー
「他人を疑うほうが損をしないように思えて、実はそっちの方が損をする」という実験。まず相手を信頼することが大事→やっぱり調和は大事だ、という反論。しかし私は他人を信用するなとは言ってない。むしろ不透明化した社会においてますます不可欠なものになっていると思う。問題なのは信頼の在り方と醸成の仕方。先の例で言えば、いかにも先験的な信頼が望ましいかのようだが、現実のやり取りは単純な信じる裏切るの二択じゃない。むしろ信頼してて相手も応えようとしてるのに、すれ違って衝突することの恐ろしさ=地雷(コミュの困難さ、不可能性)。信頼・コミュよりディバイドへ。

 

<褐色の恋人スジャータ>
千羽鶴の例。思い出に浸るのは自由だが、それを人に強いる権利はない。誰もが無意味だと思いながらそれに縛られている。条理なくして不条理という観念は成立しない。ならばと条理を捨てて打ち寄せる波に身を任せても、結局は条理が回帰してくる。さて、「自然」に暮すのは条理を超えるか?「自然」は結局人間側のカテゴリー。「自然」に固執すること自体が自然じゃない。

 

<南木曽、耐用年数>  ネタが存続する環境
みんながそうとは言えないが、表象を本質だと見誤るな。ストレートな発言が好まれない。あるいは婉曲が好き→ネタ的コミュニケーション。時折噴出する感情的なだけの発言は何か?→ネタはあくまでコミュニケーションスタイルにすぎず、内実を理解した先に生まれてくるものではない。にもかかわらず、婉曲が好まれるためにストレートな発言よりレベルが高いかのように見え、かつ婉曲であることによって「わかってやっている」と逃げやすい。さらに、少しでもきちんと突っ込もうものなら、野暮なヤツ、めんどくさいヤツとなるわけ。表面的には断絶してるがむしろ陸続きな特徴。耐用年数をすぎている。

 

右翼も左翼も束になって14、ねとすた1、後篇6> 「無宗教」、「オタク」、「ひぐらし
肉りんごアーキテクチャの生態系、そこが厄介で、コミュニケーション内容以前にコミュニケーション方法の問題としてオカルト肯定は採用できなかった。これは何?オヤシロパワーです。はい終了~みたいな。うみねこの魔法。崇高なるモノ。出題編で熱狂がいかに利用されるか、熱狂がいかに誤りへと転がり落ちていくかを描いてしまっている。それをやっておきながら、やっぱり信頼が大事。信じれば叶うってオメー何なんだよwて話。一応好意的に解釈すれば「信頼と裏切り」の二重構造にはなるが、有効に機能しているとは言い難い。批判するせよ肯定するにせよその前提が必要。

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