家族という消費システム2

2007-02-11 22:17:36 | 抽象的話題
前回、家族というシステムが消費という観点で有効であることを述べた。今回は、それを前提としてさらに話を進めてみたい。


現状の満ち足りた生活や個人主義は家族を作るリスクと責任を回避したがる傾向を生み出すのだが、これは大きな問題である。例えば今日、小さな子供でさえも消費社会に組み込まれており、彼らの中でブームを呼ぶことは大きな経済効果を生み出しうる(判断力に関係なく千円は千円である。利潤とはそういうものだ)。よって家族を作らないのは、家や車の購入を約束しないばかりか、子供という体のいい金づるを失うことにも繋がる。家族を作らないのは、これを含めた数多くの経済的損失を伴うと言えるだろう(既述のように、家や車、養育費、冠婚葬祭の費用などなど)。


ところが私の見る限り、家族(子供)を作らないのは「動物の本能に反する」から問題なのだと言う意見ばかりだ。しかし前にも述べたように、その視点から家族を作らないのを批判するのは最早説得力がない(この記事も参照)ばかりか、人を増やさない方が世界にとって有益な状況になってきているとさえ言えるのだ(60億の人が溢れているのに、どうして子供をどんどん増やす必要があるだろうか)。ゆえに子供をきちんと産んで増やすべきだという意見は、「社会へ税的・経済的に奉仕しろ」という視点でのみ成立するものと言えるだろう。


家族(特に子供)を作らないのを批判する人がどこまで意識しているのかわからないが、以上述べたように問題の本質は経済的な部分にあると言える。要するに、体のいい言葉で誤魔化すなということだ。家族というシステムは生活の単位である以前にこの資本主義社会で有効な消費システムとなっているのであり、それゆえにこそ家族を作るのは社会的に有益で推薦されるべき行為なのである。


※なお、そんな理由で家族を作りたくないという反応が当然出ると思われるが、今はとりあえず失業率との兼ね合いを指摘しておくに留めておこう。たとえ無駄遣いであれ、消費するからこそ経済は回る。あとはそれをどう考えるかだ。
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