(序)
最初に断っておくが、この記事は非常に個人的な経験から一般の終末思想のあり方を推論したものであって、様々な宗教教義を網羅した内容にはないっていない。もし深く知りたいのであれば、各種文献を読まれることをお勧めする。
(本文)
先日「病的な完璧主義:世界への敵意と滅びの希求」を書いたが、題名にもある通り、その内容が病的で神経症的な色彩を帯びているのは明らかである。ところで(気付いた人もいると思うが)、そこから少し考えてみるとこの内容は非常に宗教的な性質を帯びている。もっとはっきり言えば、それはほとんど終末思想と同じ構造を持っているのである(マヌケなことに、この類似性に気付くのに私は10年近くかかった)。
とすれば、そのあり方は一般的な終末思想の構造を分析するのに使える。以下、それを利用して終末思想の成り立ちを考えてみると、
1.不正の発見と怒り、そして是正の希求が生じる
2.不正があまりに大きなレベルで起こっていることを認識し、失望する
3.その結果、不正に満ちた世界など消えてしまえ、という考えが表れる
消失は単に世界を消し去るだけではなく、誰もが消えるという点において「平等である」という部分が重要である。そして最後に、(ここが私の「滅びの希求」と大きく異なっているのだが)来世で神の審判に基づく平等な評価が行われるのだ(※)。つまり終末(思想)とは、不正が消滅する、平等に消える、来世で公正な評価がなされる、という三つの点で公正・平等を実現する現象・思想であると言うことができる。
要するに、不正の消滅と公正の実現を希求することが終末思想を生む精神的な土壌であり、またそのような精神性ゆえに終末思想は時として人の心へ強く訴えかけると考えられるのである。
※
それゆえに終末思想において、(信心深い者にとってだが)滅びは救いと同義である。一方私の「滅びの希求」の場合滅びは(前述のように)「消失」なのであって、そこに救いといった要素は全く存在しない。またそれゆえに、自分が死んだほうが早いという結論に到った側面もある。
最初に断っておくが、この記事は非常に個人的な経験から一般の終末思想のあり方を推論したものであって、様々な宗教教義を網羅した内容にはないっていない。もし深く知りたいのであれば、各種文献を読まれることをお勧めする。
(本文)
先日「病的な完璧主義:世界への敵意と滅びの希求」を書いたが、題名にもある通り、その内容が病的で神経症的な色彩を帯びているのは明らかである。ところで(気付いた人もいると思うが)、そこから少し考えてみるとこの内容は非常に宗教的な性質を帯びている。もっとはっきり言えば、それはほとんど終末思想と同じ構造を持っているのである(マヌケなことに、この類似性に気付くのに私は10年近くかかった)。
とすれば、そのあり方は一般的な終末思想の構造を分析するのに使える。以下、それを利用して終末思想の成り立ちを考えてみると、
1.不正の発見と怒り、そして是正の希求が生じる
2.不正があまりに大きなレベルで起こっていることを認識し、失望する
3.その結果、不正に満ちた世界など消えてしまえ、という考えが表れる
消失は単に世界を消し去るだけではなく、誰もが消えるという点において「平等である」という部分が重要である。そして最後に、(ここが私の「滅びの希求」と大きく異なっているのだが)来世で神の審判に基づく平等な評価が行われるのだ(※)。つまり終末(思想)とは、不正が消滅する、平等に消える、来世で公正な評価がなされる、という三つの点で公正・平等を実現する現象・思想であると言うことができる。
要するに、不正の消滅と公正の実現を希求することが終末思想を生む精神的な土壌であり、またそのような精神性ゆえに終末思想は時として人の心へ強く訴えかけると考えられるのである。
※
それゆえに終末思想において、(信心深い者にとってだが)滅びは救いと同義である。一方私の「滅びの希求」の場合滅びは(前述のように)「消失」なのであって、そこに救いといった要素は全く存在しない。またそれゆえに、自分が死んだほうが早いという結論に到った側面もある。
エルサレムしかり弥勒しかり。
この点で両者は異なる気がする。来世での救済~のあたりは不勉強のためよく分からず…
ボゲ氏の断りには個人的~とあったが、「私の希求にはない(携帯からなので正確に引用できぬ、すまん)」と一般論に踏み込んでおられるように思われたので。
まあ不正な世が滅びること自体が救済という捉え方はできると思いますが…
救済に関しては、期限きってあるしエルサレムや弥勒は現世の話かと思ってたけど…