「江戸時代に戻ればいい」といった言説が全くバカげているという話は何度かしてきたが、その理由は
1:移動の制約
2:階級移動の制約
3:情報の制約(国内・国外とも)
4:1~3による共通前提の大きさ
5:農業を主体とする産業構造
といった江戸時代の前提を完全に無視しているからだ。
言い換えれば、現代社会のようにヒト・モノ・情報の流動性が高く、また農業と違って土地そのものには依存しない産業が中心の構造だから、より良い環境を求めての移動を抑止することもできないし、ゆえに江戸時代のような共同性を担保することも不可能である(仮にそれを実現しようとすれば、情報統制や相互監視[五人組!?]のような形で第二の北朝鮮かという体制を築く必要に迫られるだろう。つまり、現実的にそんな施策は打てないということだ。なお、産業の件は以前紹介した熊本のTSMC工場誘致のような事例もあることは付言しておきたい)。
実際に、地方の共同性は今の環境だとしばしば抑圧でしかなく、むしろ人が流出したり、流入者を追い返す要因の方に貢献している。上手くいっているような事例についても、単に既存の仕組みを適用していくのではなく、新しい血を取り込みながらどう構造を作り変えていくかを検討した上で成立したものであり、「今の状態をそのまま維持していれば何とかなる」という類のものではない。
まあそもそも江戸時代にしてからが250年以上続き、中期以降は農民の間での貧富の差の拡大が全体の構造を揺るがしたり、あるいは幕末なら諸藩が借金まみれでこれが廃藩置県をスムーズにしたなんて事情まであるわけだが、今の日本は何となくイメージされる「江戸時代」ではなく、どちらかと言えばそういった問題が噴出していた「幕末」に近く、もっと言えば昭和恐慌や農村恐慌にあえいでいた戦前の日本の方が重なり合うのではないだろうか(幕末の後、あるいは前出の恐慌の後に日本がどうなっていったかはご存じの通り。仕組みが耐用年数の限界を迎えている以上、内容の是非は別にして大きな変化が起こらざるをえなかった)。
要するに、江戸時代という大きな戦乱が長く見られなかった時期を理想視し、そこへの回帰を訴えるのは心情的に何か善きことを言っているつもりになるのかもしれないが、所与の条件が違いすぎて話にならない、というのが実際のところである。
まあ不安が世を覆っている時は、中身のない言葉で人心を落ち着けるというのも一つの施策ではあるが、それは病気で言うなら麻薬で痛みを誤魔化しているだけで、何ら解決にはなっていない、と述べつつこの稿を終えたい。
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