「反抗的」とされたハンセン氏病患者たちを収監した重監房の復元模型の展示の先には、重監房が設置された背景が説明されていた。
1873年にはハンセン氏病の原因が明らかにされ、遺伝病ではないことが確認されたにもかかわらず、「業病」とされていた頃のように家族への差別は止まず、しかもそうした理由から故郷を離れ放浪したり(「砂の器」で描かれたような状況)、本妙寺のように集住していたりした人々に対し、政府は強制隔離という手法でさらに差別を促進するだけでなく、「無らい県運動」などを訴えて民衆を煽りさえしたのである。
明治→大正→昭和となるにつれ、医学の進歩に合わせて政策が是正されるどころか、むしろ隔離を強化する方向へと向かっていった(このあたりについては、近代国家の傾向やそれとの比較として、ミッシェル・フーコーの『監獄の誕生』や『狂気の歴史』なども参考になるだろう)。しかも、強制的に隔離された先は人手不足の劣悪な環境で、さらに閉鎖空間であるのをよいことに不正が横行するなどした。ジャニーズ問題、マスメディアの隠蔽体質、ビッグモーターといったブラック企業の傾向、宝塚の陰湿ないじめの構造など、告発の仕組みが以前よりは発達した今日でさえ、閉鎖空間の中では超法規的な行為がまかり通ることはよく知られているところで、ましてそれが国家レベルで行われたのであれば、その病理の深刻さは思い半ばに過ぎるというものだ(これは優生思想に基づく殺人や人体実験を行ったナチスの諸政策を例に挙げれば十分だろう)。
なお、ここで読者の中には当時の療養施設を今日の病院のようにみなし、「治療を受けられたのだから有難く思うべきだ」と考える向きがあるかもしれないが、それは完全に間違っている。
というのも、医師や看護婦の不足により収監された人々が(強制的に隔離されているにもかかわらず)満足な治療を受けられないこともしばしばだったことは前述した通りだし、さらに隔離されたハンセン病患者たちは洗濯や掃除といった身の回りの事柄はもちろん、食糧確保のための耕作についても、その病態に鞭打ちながら行うことを強いられていたからである(もちろん、病状の深刻度により程度はあるが)。
そして劣悪な労働環境が身体に極めて大きなダメージを与えるということで、例えばゴム長靴の導入を要求し、容れられなければ作業を一時的にボイコットして異議申し立てするような行為も、「反抗的」とされ、懲罰の対象とされたのである(実際その人物は、重監房に送られることになった)。
すると当然、移動の自由を奪われたことや、あるいは劣悪な環境に対する不満から抵抗運動や脱獄事件が起きる訳だが、それに対し政府は待遇改善ではなく、懲罰をもって応えた。その象徴的存在が重監房である。
その環境は極めて劣悪であり、懲罰の意味合いはもちろん、死亡率の高さからしても「自分たちの都合の悪い存在を消極的に抹殺しようとした」と表現しても過言ではないほどであった。
こういった話を聞いても、遠い昔の事のように思えるかもしれない。しかし、ハンセン病患者の隔離は1941年に治療薬が開発された戦後もなお続いたし、何よりつい数年前のコロナ禍において、(日本以外の国も含め)どれだけの迷走や抑圧が生じたことか。そして少し立ち止まって記憶を掘り返せば、「マスク警察」や「自粛厨」といった、草の根の病的な言説を思い起こすこともできるだろう(不安を煽るかのような毎日のコロナ発症数の報道や定見なき政策については言うまでもない)。
その様を、ハンセン氏病患者に対する国家的隔離政策はもちろん、「無らい県運動」で煽られた民衆が周囲を密告する相互監視的状況が草の根で生み出されたことと重ね合わせれば、「遠い昔」どころか、むしろほとんど全く変わっていないとさえ言えるかもしれない。
つまりコロナによるパンデミックは、ハンセン氏病にまつわる国家的愚行から100年の時を経て、科学の知見が遥かに発達した今日でさえ、条件が整えば(全員とは言わないまでも)私たちが同じような行動を取りうることを、白日の下にさらしたのである。そう思いながら重監房の展示を見る時、それらは過去の教訓というよりむしろ、極めてアクチュアルな問いを突き付けていると気付かされるのではないだろうか(「歴史は繰り返さないが韻を踏む」とはまさにこういうことを言うのだろう)。
過去の話について、後知恵では何とでも言える。しかし、同じ立場に立たされれば平気で同じようなことをやり、そして正当化さえするだろう。その陥穽にはまる理由は、ただ非人道的だと批判するだけで、構造そのものを理解しようとしておらず、ゆえに(被害者・加害者どちらも)自分にも降りかかりうる交換可能なものだと認識していないからだ(「悪魔化」と表現することもできるが、正常性バイアスとも類似の反応と言える)。
正当化は論外にしても、ただ批判や嘲笑の的にしても有害無益であり、そこから構造(スキーマ)を抽出し、それに対する免疫化や防衛策を整えること。これが過去を知ることを単に知識ではなく行動に昇華できる唯一の手段なのではないだろうか。
ちなみに先ほど「韻を踏む」という話をしたし、また構造の解析こそが重要だと書いたが、例えば強制隔離と施設内での暴虐ということで言えば、1946年から1950年にかけて起きた岡山の岡田更生館事件などを想起することができる(ちなみに「ひぐらしのなく頃に」という作品を知っている人は、高野美代が収容されていた施設の痛ましい様相を思い出すこともできるだろう)
なお、今回私がこの博物館を訪れた理由は、「重監房廃止。しかしその先は?」という特別展が行われていたからだ(撮影不可なのでそこの写真はない)。ハンセン氏病患者の強制隔離は、戦後になってすぐに停止された訳ではない。言い換えれば、その責を「戦前的なるもの」に負わせることで、今の我々が免罪されることはできないのである。その意味において、重監房的なるものが戦後どのように残存していたのかという展示は、私にとって極めて興味深いものだった。
中でも1951年に起こった菊池事件(冤罪により死刑となった事件)については、「特別法廷」という闇を含め、今後さらに解明していくべき部分の一つであると思う。これについては、すでに熊本地裁による違憲判断が確定しているが、単独で考えるべき案件とは思われない。というのも、再審により無罪が確定して最近話題となっている袴田事件があるが(念のため言っておくと特別法廷による裁判ではない)、そこでは警察・検察による「台本」ありきで冤罪が作り上げられていく取り調べや人質司法のあり方が問題となっている。こういった状況を鑑みれば、日本における司法の在り方全体への問い直しの一環として、特別法廷の歴史的検証は極めて重要だと認識した次第だ。
・・・さて、そんな風に様々なことを考えさせられた展示であったが、それも最後に差し掛かった。
展示室から出る時に、先ほどは目を向けそびれた本妙寺の話がでていた。私の郷里は熊本だが、ハンセン氏病患者の集落があった本妙寺以外にも、菊池電車の駅もある再春荘(現:菊池恵楓園)などが存在し、また母親が医療従事者でハンセン氏病のことをよく話していたこと事情もあって、就学前からハンセン氏病という病の存在を知っていた。
その病と差別の歴史や、それを生み出した国家の政策について、様々な角度で考えるきっかけを得たという点で、この資料館を訪れたことは極めて有意義だったように思う。
最後に、この施設で命を落とした人々に鎮魂の合掌をしつつ、この稿を終えたい。
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