マスコミの戦争責任について:満州事変、発行部数、ポピュリズム

2022-12-18 11:42:42 | 感想など
 
 
 
昨日の記事では、ドクトル・ジバゴの評価に関連して、「体制・権力≠絶対悪」であり、ゆえに「反体制・反権力≠絶対善」でもあると述べた。要するに「0-100」の議論(認識)は不毛ということである。
 
 
それに絡めて言えば、日本の戦争責任というものを考える際に、「一部の軍部や政治家が暴走してやった」=「それ以外の日本人は全き被害者である」というような理解もそれにあたる。例えば筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』などでも描かれるように、「民衆は常に平和を望んでいて戦争に反対をしていたが、無理やり戦争に引きずり込まれた」などという発想は端的に誤りであって、むしろ積極的に賛同する人間も少なくなかった。一部の人間に全責任があるというのは、あくまで連合国との手打ちのための用意された政治的ロジック(その者たちを裁いて排除したから「敵性国家」とも今や和解できるはずだ、ということ)に過ぎず、実態はそれとかけ離れていたと言える。
 
 
もちろん、これをもって「全員が等しいレベルで罪を負っている」などと考えるのもまた誤りだ(そもそも戦勝国が敗戦国の「戦争犯罪を裁く」という行為をどう評価するのかという問題も別にあるが)。言うまでもなく、立場によってアクセスできる情報量・質は違うし、決定権も全く異なるからである(また当然、積極的・消極的は別にして、反対者が存在していたことは言うまでもない)。つまり「一億総懺悔」などというスタンスも、詰まるところ一種の思考停止(丸山眞男風に言えば「無責任体制」)にすぎないと言えよう。
 
 
以上を踏まえれば、今回の「新聞加害者論」についても、Yes & No というのが正確な評価ではないか。すなわち、満州事変という世界史の転換点となる出来事に関し、そこで慎重に情報を吟味するよりもむしろ、事態を煽って拡大に加担したという点では加害者的であろう(この時に威勢のよい内容を書いた新聞の方が売れたというのは、日露戦争の講和条約で現実路線を採る政府の意見を掲載した国民新聞社が日比谷焼き討ち事件で襲撃されたことを連想させる。これはパブリックディプロマシーとの兼ね合いでも考察される必要があるだろう)。さりながら、その後で五・一五事件や二・二六事件などを経て統制が強まり、さらには翼賛体制も成立した上で太平洋戦争に突入した状況から敗戦までを全てマスコミの責任に帰することは無論できようはずもない(統制が強まった頃には体制への批判的意見も掲載しづらくなっていったわけだし)。
 
 
まして、この話を元にただ「やっぱりマスゴミは云々」などと吐き捨てるのは非生産的行為の極みであろう(こういう視点が生まれる必然性については後述する)。むしろ、マスコミというものも所詮は営利会社の一種に過ぎないという事実を踏まえた上で、「あなたがたは『公器』としての役割を与えられ、それを自負してもいるのだから」と、冷徹な批判精神でもってその問題点を指摘・改善要求していく方が有益である。
 
 
例えばマスコミが(過度に)自己利益に走らないようにするためには、透明性の確保が重要であろう。であるならば、「記者クラブ」や「クロスオーナーシップ」とは一体何なのか?そのようなシステムに沈黙を決め込み、そこに胡坐をかき続ける組織が、一体どうして他のグループを批判する資格を持つのだろうか?普通に考えればわかることだが、健全な視点で物事を見ようとすれば、批判的視座もそこに含まれることは言うまでもない。そしてそのような批判精神を発揮し表現するような組織である以上、他のグループ以上に襟を正して自らのガバナンスに意を用いなければならないことなど、学童でさえわかりそうな話である(でなければ「どの口がほざくか」とむしろ逆に批判されて終わりだからね)。しかしそれにもかかわらず、隠蔽や黙殺の事案は呆れるくらいに報告されている。これではむしろ信用を維持できる方が不思議だし、これがマスコミが(ある種)一般企業以上に厳しい目で見られる理由である。
 
 
ネット記事に関しても大手マスコミ由来の記事が多くみられることを踏まえれば、「マスコミなんて無くなってもいい」というのはあまりにも現実を見ない人間の態度である(そもそも同等に取材力のある組織がどれだけ存在するのかという話)。しかしながら、その役割の重要性を喧伝する人々は、なぜ今これほどにマスコミ批判が広がっているのかということを真摯に考えるべきだ(いわゆる「マスゴミ批判」を非難する人々には、不思議なほどこの視点が欠落しているように見える)。
 
 
そこには、権力化・既得権益化したマスコミへの嫉妬や憎悪もあるにせよ、マスコミの側が自らを公器と喧伝しているにもかかわらず、健全な批判精神を発揮するに足る自浄能力がある(それは能力でもあり資格でもある)ことを自らの「血」をもって証明する行動が欠落していることが大きな要因ではないか?いくら公器として己の役割の重要性を説いたとしても、自らにその批判の刃を向けられないと言うのなら、せいぜい「身を守るためのただのポジショントーク」と思われるのが関の山だろう(ちなみに言っておくと、マスコミ上層部の逃げ切りメンタリティなどからしても、改善どころか人材的にも財務的にもどんどん衰退が進んでいくものと推測される。そしていよいよどん詰まりとなった時、そこから何かしら変化があるのか、それともそのまま死に絶えるのかは、いずれ時が教えてくれることになるだろう)。
 
 
今回の「新聞加害者論」についても、単に特定の存在をくさして終わるのではなく、「報道機関の持つ影響力の大きさと責任」という視点で見ていくことが、マスコミの内側にいようが外側にいようが重要であると述べつつ、この稿を終えたい。

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