さて、この前は「主人公の評価と選べない苛立ち」において、君が望む永遠(以下君望)の鳴海孝之は文脈に依存する「感情理解型」の主人公だ、という話をした。このことは、なぜ第一章が存在するのか?を考えてみるとわかりやすい。もし孝之がプレイヤーの選択によってかなりの程度行動(原理)が変化する人間として描きたいのなら、第一章の部分を完全に削るか、描くにしても過去を断片的に回想するような形にすればよいのだ。行動が大きく変化しても矛盾が生じにくいからである。では、わざわざ第一章を独立して立てた理由は何なのか?以下それを考えてみたい。
第一章の意図としては、もちろん第二章と対照的な話を描くことで、第二章の色合いをより強く浮かび上がらせる、といったもの(単に雰囲気や内容だけでなく、茜の態度といった具体的領域にも及ぶ)もあるだろうが、複雑な人間ドラマが描かれる第二章の準備段階として登場人物のキャラクターを浸透させておく、という意味あいが含まれていると思われる。とするならば、視点を変えて考えると、第二章の行動(原理)を見ていく時には、第一章の内容を前提として考慮する必要がある、という結論にいたる(他の作品で言えば、ゲームなら「ひぐらしのなく頃に」、小説なら「カラマーゾフの兄弟」あたりがこれに近い)。
このあたりを理解してもらうため、私の例を提示したい。私自身は、第一章の途中でやめた後、しばらくたって他の人が第二章をプレイしているのをある程度見てから、自分で最初からプレイし直す、という少し特殊な経緯でプレイしていたのだが、プレイを再開する前は「選ぶならどう考えても水月だろ。遥にする理由が全くわからん」と考えていたのをはっきりと覚えている(ちなみに、個人的な嗜好は今も変わっていない)。しかし、再プレイの中で「遥への気持ちは眠っていただけだ」という発言などを見るにつけ、自分が孝之の遥に対する思いを全く考慮せず、自分の嗜好だけで的外れなことを考えているのではないか?と思うようになった(ここを見落とすと、遥の容態がある程度安定した後でなお、孝之がどちらを選ぶか逡巡する理由がまるで理解できなくなるばかりか、ちゃんと選んだのに何でまた迷うの?といった苛立ちに支配されることになる)。今思えば、再プレイをする前の私の考えは「孝之は自分の嗜好に従って行動すべきだ」という暗黙の前提をもとにしており、鳴海孝之の文脈を全く考慮していなかったのである。なぜ第一章で、あれほど遥との蜜月を描いたのだろうか?あるいはなぜ孝之は遥の事故の後であれほど憔悴したのだろうか(ここにはいわゆるサバイバーズ・ギルトも絡んでいると思われる)?そのように考えてみると、第一章を描いた目的が孝之の行動原理を示すことにあったと理解できる。
文脈という言葉からは誤解を受けるかもしれないが、私は「想像力で補え」とか「行間を読め」などと言っているのではない。むしろ逆で、君望は孝之の文脈、あるいは行動原理を第一章などの形で明示しているから、まずそれをちゃんと読むことが必要だ、と言っているだけなのである(深層への眼差しを持てという意味ではなく、まず表象を理解しろという話)。その過程において、君望が細かい心理描写などによって感情の動きや行動原理を(文字通り)明示し、登場人物たちの複雑な行動や発言を理解するための材料をプレイヤーに足対して十二分に提供しているという事実が確認されるだろう。そしてそれを読めば、孝之のような行動にいたる背景は十分に理解できる、と私は言っているのである。
もっとも、「その行動原理を理解した上でそれがおかしい(孝之=ヘタレ)と言っているんだ」という反論も出てくることが予想される。そこでまず私が聞きたいのは、その「おかしい」とはどういう意味においてか?ということだ。例えば、「ある女と付き合っているのに、昔の女への感情が蘇るなんてこと自体が許せない」というような人がいるかもしれない。これは要するに感情的に受け入れられない、ということだが、それならば君望の作品の質(レベル)の問題では必ずしもないし、また「なぜそれが許せないのか」と自らに問いかけることも可能だろう(しかしそういう感覚にしても、遥の容態を考慮した結果、孝之がかつてのような関係を遥と擬似的にでも結ばざるをえず、そのことが遥への恋愛感情の喚起に大きく影響したという事情が考慮されていないのであれば、いささか独善的にすぎると私は思うのだが)。
あるいは、孝之の行動原理を論理的におかしいという人もいるかもしれない。こちらの方は、それこそ「論じる」余地があると思うので、サバイバーズ・ギルトやマリー・アントワネットなどを軸に考えていきたいと思う。
第一章の意図としては、もちろん第二章と対照的な話を描くことで、第二章の色合いをより強く浮かび上がらせる、といったもの(単に雰囲気や内容だけでなく、茜の態度といった具体的領域にも及ぶ)もあるだろうが、複雑な人間ドラマが描かれる第二章の準備段階として登場人物のキャラクターを浸透させておく、という意味あいが含まれていると思われる。とするならば、視点を変えて考えると、第二章の行動(原理)を見ていく時には、第一章の内容を前提として考慮する必要がある、という結論にいたる(他の作品で言えば、ゲームなら「ひぐらしのなく頃に」、小説なら「カラマーゾフの兄弟」あたりがこれに近い)。
このあたりを理解してもらうため、私の例を提示したい。私自身は、第一章の途中でやめた後、しばらくたって他の人が第二章をプレイしているのをある程度見てから、自分で最初からプレイし直す、という少し特殊な経緯でプレイしていたのだが、プレイを再開する前は「選ぶならどう考えても水月だろ。遥にする理由が全くわからん」と考えていたのをはっきりと覚えている(ちなみに、個人的な嗜好は今も変わっていない)。しかし、再プレイの中で「遥への気持ちは眠っていただけだ」という発言などを見るにつけ、自分が孝之の遥に対する思いを全く考慮せず、自分の嗜好だけで的外れなことを考えているのではないか?と思うようになった(ここを見落とすと、遥の容態がある程度安定した後でなお、孝之がどちらを選ぶか逡巡する理由がまるで理解できなくなるばかりか、ちゃんと選んだのに何でまた迷うの?といった苛立ちに支配されることになる)。今思えば、再プレイをする前の私の考えは「孝之は自分の嗜好に従って行動すべきだ」という暗黙の前提をもとにしており、鳴海孝之の文脈を全く考慮していなかったのである。なぜ第一章で、あれほど遥との蜜月を描いたのだろうか?あるいはなぜ孝之は遥の事故の後であれほど憔悴したのだろうか(ここにはいわゆるサバイバーズ・ギルトも絡んでいると思われる)?そのように考えてみると、第一章を描いた目的が孝之の行動原理を示すことにあったと理解できる。
文脈という言葉からは誤解を受けるかもしれないが、私は「想像力で補え」とか「行間を読め」などと言っているのではない。むしろ逆で、君望は孝之の文脈、あるいは行動原理を第一章などの形で明示しているから、まずそれをちゃんと読むことが必要だ、と言っているだけなのである(深層への眼差しを持てという意味ではなく、まず表象を理解しろという話)。その過程において、君望が細かい心理描写などによって感情の動きや行動原理を(文字通り)明示し、登場人物たちの複雑な行動や発言を理解するための材料をプレイヤーに足対して十二分に提供しているという事実が確認されるだろう。そしてそれを読めば、孝之のような行動にいたる背景は十分に理解できる、と私は言っているのである。
もっとも、「その行動原理を理解した上でそれがおかしい(孝之=ヘタレ)と言っているんだ」という反論も出てくることが予想される。そこでまず私が聞きたいのは、その「おかしい」とはどういう意味においてか?ということだ。例えば、「ある女と付き合っているのに、昔の女への感情が蘇るなんてこと自体が許せない」というような人がいるかもしれない。これは要するに感情的に受け入れられない、ということだが、それならば君望の作品の質(レベル)の問題では必ずしもないし、また「なぜそれが許せないのか」と自らに問いかけることも可能だろう(しかしそういう感覚にしても、遥の容態を考慮した結果、孝之がかつてのような関係を遥と擬似的にでも結ばざるをえず、そのことが遥への恋愛感情の喚起に大きく影響したという事情が考慮されていないのであれば、いささか独善的にすぎると私は思うのだが)。
あるいは、孝之の行動原理を論理的におかしいという人もいるかもしれない。こちらの方は、それこそ「論じる」余地があると思うので、サバイバーズ・ギルトやマリー・アントワネットなどを軸に考えていきたいと思う。
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