永遠を求める心性

2008-11-04 00:19:57 | 抽象的話題
最近「君が望む永遠」(以下君望)の記事ばかり書いている気がしますので、少し一般的な話題に繋がるものを書いてみようと思います。


さて前回は「君が望む永遠~第一章の存在意義~」という内容を扱ったわけですが、そこで私は君望を理解するのに深層を読み込む必要など無く、表象としてあるもの(テキストなど)をきちんと読めばわかるようになっている、というような話をしました。では、深層まで読み込んだ場合にはどのようなことが発見できるのでしょうか。あるいはそもそも、深層まで読み込むとはどういうことなのでしょうか。それを題名の分析を通じて明らかにしていきましょう(実は穂村エンドについて考える中で副次的に出てきた問題意識なのですが、詳しくは別の機会に述べたいと思います)。


ずいぶん前に「エンディングから見た君が望む永遠」という記事を書いたことがありますが、君が望む永遠のハッピーエンドの曲、すなわち「君が望む永遠」とバッドエンドの曲である「終わりを迎える日まで」は、二項対立の関係になっています。それは単にハッピーの(明るい)曲、バッドの(暗い)曲といったものに留まらず、「永遠」と「終わり」という点においても明確なコントラストをなしているのですが、もし「永遠」=ハッピーエンドとするならば、今度は「なぜ彼女達がそこまでして<永遠>を望み、求めるのか」という疑問が湧いてきます。


その疑問を考えていると、彼女達には世の無常(という言い方はやや大げさに聞こえるかもしれませんが…)を経験しているという背景があることに気付かされます。それは「世界は常に変化している」というような抽象的で理屈めいた理解ではなく、たとえ幸せな生活を送っていても、ちょっとした偶然でそれらは失われてしまう、というような極めて実感的なものだと考えられます(それは、第一章と第二章のギャップが残酷なほど明確に示していますよね)。彼女達は「世界は無常だ」とか「不条理だ」などと明言こそしませんが、それを体感し、あるいは今もなおし続けているからこそ、例えば水月が結婚を望んだりするように、確かで形あるものを求めるわけです(実は穂村の振舞もその枠組みで理解できる可能性が高いのですが、それは別の機会に論じるつもりです)。これが、「君が望む永遠」の真相だと考えられます。


ところで、こういった態度を「不安定なものを退け確かなものを求める」と表現するなら、それこそ表象と深層の関係になりますし(まあ昨今はそれほど無邪気に深層などをアテにしませんが)、あるいは「この世の儚さを知り、永遠不変なものを希求するようになる」と表現すれば、宗教を求める精神構造(「「神の罰」の起源」など)を連想する方も多いでしょう(ただ、先ほども触れましたが、「無常」とか「儚い」とかいう言葉は君望の中には出てきません。これは、そういった宗教的な読まれ方・理解を避けようとしたのかもしれません)。あるいは、「見えないものを恐れ、同じ状態が続くと考えずにはいられない」というふうに表現を変えれば、不安の構造などにも繋がってきます(そこから、流動性の高い社会が抱えるストレスといった視点にも連結できるでしょう)。


このような深層の読解から、「君が望む永遠」は偶然の事故によって幸せな日々を失うというこの世の無常を知る人たちが、確かなもの=永遠を求めるというような、人間の在り方を巧みに描いていると評価できるのではないでしょうか。


蛇足ながら…
永遠の希求が宗教と深く関係すると聞き、私がkanonを批判する際に「奇跡による救済の話:感動モノと宗教」などを書いていたのを思い出し、疑問に感じた方がいるかもしれません。それに応えるなら、前提があるかないか?別の言い方をすれば「中身をきっちり書いているかどうか」という話になるのですが、詳しくは「kanonと君が望む永遠:過程の不在か細かな心理描写か」や「嫌いな作品:感動的なフレーズによる誤魔化し」などをご覧ください。なお、前提のない無邪気な永遠の信仰ということについては、「自殺の可能性について:人は経験に学ばない」などを参照してください。
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