「伝統」を守ることでただ自分の心の安寧が得られるというのなら、自分が勝手にそうしていればいいだけで他人に強制する権利も資格もない。もし他者(あるいは社会)にそれを維持することを要求するのなら、数字や他国との比較対象といったエビデンスをきちんと提示する義務がある(たとえば、他国において別姓を認めたことで離婚や結婚、出生などに大きな影響が出た、とかね)。ただ「伝統」として長く続いているから維持した方がよいということであれば、そもそも1000年近く前の鎌倉時代は別姓だったわけで、こちらの方が明治以降に制定されたに過ぎない現行の規定より優先されるのが筋ではないか。要するに、「伝統」云々にしてもなぜ明治以降のたかだが100年程度に過ぎない制度を1000年近く前のそれより優先せねばらないのか、言い換えればなぜそれが選ばれるのかがとても恣意的に感じられるのである(もちろん、「伝統」自体が発見されるものにすぎないことを前提に話している)。だから、繰り返し言うが、問題なのは「伝統」であるかどうかではなく、それがどのように現在の社会の中でどのような役割・効果を果たせるのかということなのである(たとえば夫婦同姓の場合、子どもの姓をどちらにするか、という問題は生じないetc...)。
そのような視点で私は夫婦別姓問題について考えていたが、今回の木村草太の解説は、戸籍法のコンセプト、事実婚の法的扱い、今回の判決に込められた最高裁のメッセージなど様々な点で目から鱗であった。なるほど確かに、家族のあり方という点については、2013年9月の段階で最高裁は婚外子差別を違憲とする判決をすでに出しているわけで、法を現状に即して(あるいは元々おかしかったものを)変えるべきだとの明確な要求を立法府に突きつけている(まあ肝心の国会が、それに対して「ものすごく悔しい」といった高市早苗レベルの放言が飛び交う状態だと、その差別性の分析はもちろん、それが現実問題どのような不利益を社会・国家にもたらすのかという戦略的思考など期待すべくもないのだが)。
ただ「自分は困っていない」から、とか単に「昔」からそうだったから続けるべきだという姿勢は、思考停止なのはもちろんのこと、社会的・公共的な態度とは言い難い(現状に合わせて変えることが必ず正しいわけではもちろんない。ただ、はっきり言って、変えるのが何だか不安だからそのまま現状維持でいきたい、そしてそれをもっともらしく正当化しているだけの御仁が結構いるんじゃないかと私は思っている)。それが社会のサステナビリティに結局貢献しうるのか否かを検証しようともせず、「思い出語り」で人を惑わすのであれば、(無意識でも)自らのエゴのために社会を衰退に向かわせるという意味で、それはむしろ「売国奴」的だとさえ言えるだろう(とおそらくそういうのを声高に主張する人たちは自分が公共のために発言していると思ってるだろうから、あえてそういう強い物言いをしておく)。国家や社会の仕組みは、個人の心の安寧を目的として作られているわけではないのだから。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます