閉鎖空間、チェックアンドバランス、構造理解の重要性

2023-08-15 20:34:54 | 感想など

 

 

人間が完璧な存在じゃない以上、チェックの目が届かない組織っていうのはおかしくなる。ジャニーズ問題大手マスメディアのクロスオーナーシップ・記者クラブ制度、学校教員が働いている仕組みなんかもそうだけど、当たり前のことだよなぁ(・∀・)

 

「チェックが入る仕組みがあれば完璧」ってことじゃなくて、それがないと自浄作用が働かなくて、坂道を転がるようにどんどんおかしくなっていくんだワ(勘違いしてはいけないが、「仕組みがあれば誰もがそれを守る=問題が起きない」などという理解は学級委員でも恥ずかしくなるような世間知らずの認知であり、「問題は起こるものであるからこそ」仕組みが必要なのである)。

 

こういう事例って大きくは独裁国家、小さくは閉鎖的な田舎や毒親に支配された家庭とかいくらでも満ち溢れているし、他人事の時はいくらでも批判が出てくるのに、いざ「身内」の話になったら現実逃避して見ざる・言わざる・聞かざるが発動すると(我が事になった途端、そうせざるをえない言い訳に終始し始める)。

 

今日は8月15日なんで日本の敗戦という問題につなげるならば、そこで「自分たちは悪かった」という意識は持ったけど(埋め込まれたけど)、それが仕組み上どう「ダメだった」からあのようになり、その二の轍を踏まないようにするにはどうすべきか、て発想には到らなかったんだわな。

 

そもそも当時の日本政府がキメラ的政治体制=丸山真男言うところの無責任体制であり、それが始めから明治政府の意図したもの(新たな幕府=天皇を超える力を持つものの登場を防ぐ)であり、かつその体制を維持するための超法規的な元老たちの退場という帰結の元、ある種必然的に生まれてきたことをどれだけの人が正しく理解しているのやら(軸が定めがたいから、「次々となりゆく勢い」に飲まれるわけである)。

 

例えばファシズム国家としてヒトラー、ムッソリーニと並んで日本の天皇の写真が掲載されたことに反発する向きがあったが、確かに日本政府の内情を知っていると不正確さを指摘したくなる部分もあるとはいえ、日本がそちら側に付いたことは事実であり、また明治憲法の定めるところによれば天皇が統治権力のトップに立つこと自体は疑いようがなく、天皇は「君臨すれども統治せず」の位置にいたと説明してもそうではない側面は多々あり、その複雑性から他国の理解を得るのは難しい。これについて国民の理解度が低い&他者に説明ができないのなら、まして外国人には無理筋というものだろう。

 

本来はそうして生み出された政治的なカオスとそれによって招来された惨劇を、たとえ迂遠に思えたとしてもしっかり学び、そのガバナンスのあり方を政治以外の領域にも広げていく、というのが先の大戦にまつわる(改善に繋がり反復を抑止するという意味で)真の反省であり、それ以外にはむしろありえなかったと思う。しかし現実には、わかりやすい善悪二元論に落とし込まれ、一億総火の玉から一億総懺悔に国民ほぼ総出で鞍替えし、その結果冷戦体制の中で(朝鮮特需などもあり)上手く勝ち馬に乗って経済復興を遂げた、というのが日本という国だったわけだ(で、こういうメンタリティを批判した代表的人物が三島由紀夫だったと)。

 

言ってしまえば、戦後日本の改革というのは上から与えられた意識でしかなく、しかもその後は貧しさから脱却するために必死に働いていたら(システムに埋没していたら)、いつの間にか宗主国メリケン共和国を脅かしかねない経済力を身に着けるようになっており、そうして高揚した経済ナショナリズム=ジャパンアズナンバーワンの意識が、問題の特性を覆い隠したまま平成を迎えてしまったと😅

 

そしていざバブルが弾けて仕組みを変えねばとなった段階において、もはやマトリョーシカ状態になった仕組みには一経営者レベルで仕組みを変えても労働市場の問題で有効には機能せず、さらに政治家たちは票田の問題もあってメスを入れることができず、かくて失われた30年が到来したってワケだ(まあその当時の政府側の意識として、先進国にどうやって食い込み続けるかではなく、労働力の提供という側面で発展途上国と競争しようとしていた節があるので、そりゃ全体的に見て給与なんか伸びるわけねーわなって話である。かくて今や見事インバウンド経済頼みが濃厚になりつつあるジャパンでしたとさ)。

 

まあ卑近な話をすると、統計から見える自己肯定感の低さ+自己責任ダイスキーな国民感情からすると、自分が今いるポジションを失えば路傍の石として捨てられる恐怖が根源にあるから既得権益にしがみ付くのは当然であり、また組織の上部にいる人間=組織を作る側のステークホルダーもわざわざ自分の身を切るような事はしないから、人の流動性が高まらないのはもちろん、イノベーションも起きにくい環境であり、よって今の日本社会・日本組織の多くが短期的・全体的に改革を行える可能性はない(これはまさに『心でっかちな日本人』で述べられた相補均衡の問題や、小熊英二が『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』で述べたある種の構造的合理性+変化の難しさを想起したい。そして変化のインセンティブが少ないのに、道徳などを訴えてさえいれば人が変わると思っているのは、個人レベルではともかく、社会的提言としては愚鈍としか言いようがない)。

 

まあそういうわけで、半世紀単位でようやく変化の兆しが見え始める頃にはすでに死屍累々となっていると考えられるが、その遠因は先の大戦の惨劇を組織論として教育する契機を設けず、また実社会でもそのエッセンスを活かす方向に舵を取れなかったと私は考える。そしてこの見立てが正しいとすれば、日本社会はまだ全く戦後から脱却なんてしていない、と言えるのではないだろうか。

 

以上。

 

なお、最近忙しさにかまけて原爆のことに触れられてなかったので、それ関係の動画も紹介しておきたい。自己を合理的・批判的な眼差しで分析するのは難しいが、他者にそれを行うことはまだ多少やりやすいものだ(原爆の例で言えば、なぜあんなにもアメリカの映画会社は「バーベンハイマー」などと軽々しくネタにできたのか?と疑問に思い検証することを通じ、今度は「なぜ日本人はナチスを軽々しくネタにできるのか?」と検証してみるような流れだ。もう少し取っつきやすい例としては、アメリカで炎上したCMとその理由なども参考になるだろう)。だとすれば、先に他者の思考を批判的に理解・分析し、それをもって他山の石とするのが最も有効な内省手順の一つではないかと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 


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