それにしても、「ゆめにっき対話篇~鏡像~」が、「沙耶の唄」に関する一連の記事だとか「さよならを教えて」、あるいは「ひぐらしのなく頃に」の推理において、謎の薬物の究明に耽溺する人たちの議論を冷淡に見ていた、ということにも深い関係があると意識されているのだろうか?たとえば作中の「マザー世界」には、プレイヤーの記憶資源に訴えかけんとする製作者の意識が明白に見て取れるが、それは窓付きのメンタルと一体何の関係があるのだろうか?・・・そう考えてみるだけでも、夢の中を須らく何らかの象徴とみなすことは明らかに無理があると言わざるをえない。
深読み祭り、あるいはその自画像的側面については、「汝が深淵を覗き込むとき、深淵もまた汝を覗き返している」っていう、頭に梅の花が咲いちゃったニーチェたんの名言も引用したいところだが(笑)、そんな大上段な表現をすることこそ、むしろ自慰織ゲームを強化させ兼ねないから難しかったりする。このような発言は感覚至上主義だとか反知性主義と受け取られるかもしれないが、要は「自分はなぜそう考えるのか?」、言い換えれば「考える行為[志向性]について考える」という視点があるかどうかなのだ(=深読みが嫌いというよりはむしろ、その自画像的側面やそれを意識することでの広がりに無頓着なことを軽蔑している)。だからこそ、前掲の「鏡像」の冒頭では、自分で書いた「継子いじめ」の視点を、その歴史性に言及することで試みに解体してみたのである(ちなみに、このような眼差しが欠如しているから、かつまたそのことに発言者が気づいてないから、「君が望む永遠」関連のレビューに対して私は軽蔑の念を隠さないのである)。これが全くピンと来ないという人は、「戦前の少年犯罪」を読んでみることをお勧めしますよと。
なおこの話は、「ヒトラー最期の12日間」、「es」、「the wave」、「善き人のためのソナタ」、そして「夜と霧」への(やや)否定的な評価などとも連動している。「ザンジバーランドの怪人」ではリチャード=ローティのリベラルアイロニズムを取り上げたが、自分が自明・論理的・合理的と感じている思考や枠組みが砂上の楼閣と知る経験をすれば以上のような視点を意識せざるを得ないし、またそのような傾向はむしろ何気ないところでこそ発露するのだとも知るようになるだろう(「臨死!!江古田ちゃん」の「猛禽」について書いた記事も参照)。
次回は、それに一部関連する話を取り上げることにしよう。
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