人生という「道」

2006-01-16 22:02:05 | 生活
学歴などをとやかく言う人間はウザい。

例えば大学に関して言うと、「一浪して~大かよ」などと言う奴がいるが、正直「ほっとけよ」と思う(言われた本人がネタにしてるなら話は別だが)。今でもはっきり覚えているが、大学二年の時、古い友人がある大学に合格した話を、現在の友人にしたことがあった。その時、そいつは「一浪して~大かよ」とのたまった。俺はその時虚ろな笑いで流したが、未だにその時の後悔が残っている。なぜ「お前がそいつの何を知ってるんだ?」と怒らなかったのかと。そこまでしなくとも、最低限のフォローを入れるべきだったと俺は思う。

大学の肩書きに限らずとも、成功はしょせん砂上の楼閣に過ぎない(もっとも、それを口実に努力を放棄する人間には言うべき言葉を持たないが)。しかし、壊れたならまた作り直すこともできる。たとえ砂の城であろうとも。当たり前を承知で言うが、人生一寸先は闇だ。もしかすると次の瞬間には、事故で人殺しになってるかもしれない。その事実に怯える必要は無いが、そういう自覚くらいはしておいた方がいいんじゃないか?成功が次の瞬間に失敗で台無しになることもあるだろう。あるいはかつて落伍者のレッテルを貼られていた奴が大成功することもあるだろう。こういった極端な例でなくても、我々は失敗が成功の礎になっているということを様々な事例から理解しているはずだ。要するに、内実を知ろうとせず、目先の成功や肩書きだけ見てあれこれ評価するのはいかにも愚かしいことのように思えるのだ(誤解の無いように言っておくが、成功そのものやその人が積み重ねてきたものはきちんと賞賛すべきものと思っている)。

もちろん、世の中には失敗するべくして失敗してきた人間が大勢いると思う。だがそれでも、その人の内実を知ることなしに、あるいは知ろうとする努力なしに批判することは、他者のみならず自分をも貶める行為ではないだろうか。だから、俺は人から目標などを聞かされた時、無下に否定するようなことはなるだけしないようにしている(もちろん絶対無理だと思ったら話は別)。重要なのはその人のやる気であり、俺が口を挟むようなことではないからだ。もし彼の想いと努力が本物で、そしてそれが実る機会があれば、俺が何をすることもなく彼の願いは実現するだろう。あるいはもし、その想い、努力、運どれかが足りなければ、彼の目標は挫折するかもしれない。ただそれだけのことだ。だから、俺はこう言いたい。「やってみろ、そして成し遂げてみせろ。」と。

道は遠く、時に方向すらわからなくなる。しかし、進むことは可能なのだ。また仮に進んだとしても、そこに見えていたものが蜃気楼だったとわかり絶望することになるかもしれない。だが、絶望を恐れて進む事を―あるいは希望を持つ事―を止めるのなら、それはもはや生ける屍と同じだ。遥か遠い道のりを、しかし諦めることなく進み続けるのが「生きる」ということではないか?…俺はそのように思うのである。
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