皆殺し編においては、中盤から共闘の様相を呈していくのだが、その中で特に浮いている要素がある。それはエンジェルモートに来ていた人間の参加だ。あの場面はそもそも、エンジェルモートで亀田と会っているという時点で浮いているのだが、まあそれは亀田を仲間に入れるための「エサ」という狙いがあると推測されるので必然性がないとは言えない。そして、亀田の「デザートフェスタは逃せない」発言も(正直これを入れて何がしたいのかという感じだったが)、あくまで現実的に考えれば、1、2度しか会った事の無い子の保護を嘆願するのにそれほど真剣になるのがおかしいというのはあるだろう(そのくせ亀田が鉄平の酷さを認識しているセリフを言っているのは不自然だが)。
さて、ここまでかなり譲歩しながらきたつもりだが、そうであっても理解できないのはエンジェルモートの人間が共闘に参加していることである。それは客も店員も同じである。特に前者は、沙都子との繋がりという意味でも、妙な喋り方などの特異なキャラクターという意味でも完全に浮いている。彼らはなぜ集団に組み込まれる必要があったのか?まず考え付くのは、「悪ノリする者たち」という位置づけでの参加という役割が期待されたのでは、というものだ。役所前で妙な喋り方をする者達は、なるほど抗議の言葉を叫ぶ集団の中でおかしささえ感じさせる。しかし、なぜそんな役割を用意する必要があったのだろうか?今回の闘いが決死のものにならざるをえないことは、今までひぐらしを見てきた人間にとって自明の理であり、ゆえにそれが多少強引なものであっても、最低限笑うべきものでなかったことは認識されていたと思われる。であるならば、闘いそのものではなく、どれほど必死になっても勝てない、救われないということを知りながら闘い、そしてやはり死んでいくという構図への絶望からこそ「嗤い」は生まれるのであったはずだ。
少しまとめよう。要するに、闘いの内容そのものではなく、それが生み出す結果が今までと変わらない悲劇であることに対してこそ「嗤い」が生じるはずだった(罪滅ぼ詩「七度目になればもはや笑いとなる」。すなわち、6度の絶望あっての笑いである)。であるならば、「嗤い」を高めるためには、むしろ闘いの内容を茶化してはいけなかったのだ。真剣に闘えば闘うほど、変わらない悲劇への「嗤い」は強くなっていくのだから。
ではなぜ、エンジェルモートの客が動員されなければならなかったのか?思うに、集団での闘いの描写への「照れ」と批判回避が目的だったのではないだろうか。つまり、作者は共闘の場面で真剣に書き続けることに「照れ」て、茶化さずにはいられなくなったのだと思われる。そしてまた、集団で抗議する図に対する理性的な、あるいはニヒリズムに基づく批判の矛先をかわそうとしてもいたのではないか?言ってみれば、「まあまあ、こんな人たちも参加しているんですし(ここは穏便に)」といった緩衝材のような役割で入れたのだろう。
だが、はっきり言ってこれは失敗であった。なぜなら、皆編においては「奇跡」、「仲間」といった言葉が随所で出てくるため、エンジェルモートの人間達を置いた程度で全体の調子は変化しない。むしろ、単なる浮いた存在として逆効果であり、誤魔化しの目的で挿入されたことが明白である。たたでさえ綿流しまで尺が長いのに、余計なものを挿入した挙句に全体の雰囲気にまで水を注している以上、「エンジェルモートの人間達の参加」は演出的な失敗として批判されるべき点と言えるだろう。
さて、ここまでかなり譲歩しながらきたつもりだが、そうであっても理解できないのはエンジェルモートの人間が共闘に参加していることである。それは客も店員も同じである。特に前者は、沙都子との繋がりという意味でも、妙な喋り方などの特異なキャラクターという意味でも完全に浮いている。彼らはなぜ集団に組み込まれる必要があったのか?まず考え付くのは、「悪ノリする者たち」という位置づけでの参加という役割が期待されたのでは、というものだ。役所前で妙な喋り方をする者達は、なるほど抗議の言葉を叫ぶ集団の中でおかしささえ感じさせる。しかし、なぜそんな役割を用意する必要があったのだろうか?今回の闘いが決死のものにならざるをえないことは、今までひぐらしを見てきた人間にとって自明の理であり、ゆえにそれが多少強引なものであっても、最低限笑うべきものでなかったことは認識されていたと思われる。であるならば、闘いそのものではなく、どれほど必死になっても勝てない、救われないということを知りながら闘い、そしてやはり死んでいくという構図への絶望からこそ「嗤い」は生まれるのであったはずだ。
少しまとめよう。要するに、闘いの内容そのものではなく、それが生み出す結果が今までと変わらない悲劇であることに対してこそ「嗤い」が生じるはずだった(罪滅ぼ詩「七度目になればもはや笑いとなる」。すなわち、6度の絶望あっての笑いである)。であるならば、「嗤い」を高めるためには、むしろ闘いの内容を茶化してはいけなかったのだ。真剣に闘えば闘うほど、変わらない悲劇への「嗤い」は強くなっていくのだから。
ではなぜ、エンジェルモートの客が動員されなければならなかったのか?思うに、集団での闘いの描写への「照れ」と批判回避が目的だったのではないだろうか。つまり、作者は共闘の場面で真剣に書き続けることに「照れ」て、茶化さずにはいられなくなったのだと思われる。そしてまた、集団で抗議する図に対する理性的な、あるいはニヒリズムに基づく批判の矛先をかわそうとしてもいたのではないか?言ってみれば、「まあまあ、こんな人たちも参加しているんですし(ここは穏便に)」といった緩衝材のような役割で入れたのだろう。
だが、はっきり言ってこれは失敗であった。なぜなら、皆編においては「奇跡」、「仲間」といった言葉が随所で出てくるため、エンジェルモートの人間達を置いた程度で全体の調子は変化しない。むしろ、単なる浮いた存在として逆効果であり、誤魔化しの目的で挿入されたことが明白である。たたでさえ綿流しまで尺が長いのに、余計なものを挿入した挙句に全体の雰囲気にまで水を注している以上、「エンジェルモートの人間達の参加」は演出的な失敗として批判されるべき点と言えるだろう。
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