平凡社新書 2005年発行。以前自殺や心中について書いたが、そのまま放置するのも勿体ない話題のような気がしたので手にとってみた。以下、概要と感想を述べる。
(概要)
第一章でうつになる人や自殺する人が増えている原因を考察し、以降ではそういった環境をどのようにして生きるかを提示する。具体的には、表題になっている「つらさをつらさとして受け止める」「弱音を吐くのも生きる技術」「ありのままの”今の自分”を受け入れる」といった内容である。そしてこれを元に「助け合い、弱音を吐きあう関係づくり」、言い換えれば「察してくれ」という独りよがりな領域を抜け出し、自分の弱さやつらさを他者とのコミュニケーション通してお互いに受け入れたり解消していくようにしよう、と結論している。
(感想)
読んで思ったのは、やはり自己を客体化することの重要性である(これに関しては「自己の統一性という欺瞞」などで触れている)。本書によれば、自殺する人には「~ねばならない」という観念の強い人が多いらしい。それは理想と現実のギャップに悩むがゆえなのだろうが、そういう人の多くは自己の規範を客観視できていないように思える。つまり、「なぜ私はそう思うのか」「それは本当に正しいのか」と考えられないのである(だからこそ「作品を『読む』ということ」で自分の生理的嫌悪感などと向き合え、ということを主張している)。よく日本社会は同質性が高いと言われるが、自己の規範に対する埋没化現象はその必然的帰結と言える。現代において特に問題なのは、そういう社会風潮と自己責任を称揚する風潮が無責任にも共存していることにあるのではないか?例えば女性の生き方。なるほど昔に比べれば人生の選択肢は増えたと思う。しかし、社会の変容などによって生まれた新しい選択肢へのニーズに応えるほどではないのではないか(まあ戦後の急激な変化を思えばそれも多少仕方ないと思うが)。その一方で、選んだ後は自己責任として処理されてしまう。また、「昔は選択肢なんてなかった。選べるだけマシだと思え」といった上の世代からの無理解な言い分もかなりの場合本人を追いつめる原因となっているだろう。
さて、筆者はそのような規範への埋没化によって、自己の(特に)負の感情が顧りみられないことが実は危険だと言っている。それは例えば、怒りを覚えたときに「そんな感情を持ってはいけない」と抑圧してしまうことだ。しかし、そうやって蓄積したものはやがて精神を蝕んでいく。そうならないために、筆者は負の感情を否定せず、さりとて飲み込まれないよう距離を取りながら認めてあげるようにすべきだと言うが、その意見には賛成である。というのも、「和を重んじる」という日本人への評価が正しいとすれば、「和を乱す」ことの多い自らの負の感情を日本人は否定しがちだと思われるからだ。ゆえに負の感情(行動)に対する無意識的な拒絶は予想以上に強いため(※)距離を取っての認識は容易ではないだろうが、それをやらないといつか暴走するか精神に変調をきたしてしまうだろう。
今の日本社会には、埋没できる環境が急速に失われているように思う(だから家、自分の部屋という最後の砦に引きこもる人が増えているのかもしれない)。そしてこの状態は、おそらくこれからも変わらないだろう。であるならば、とりあえず個々人は規範に埋没しないように意識しつつ、社会的にはカウンセリングや神経症などに対する偏見を取り払っていく必要があると思われる。とにかく、社会の動きに制度も個人も付いていけていない。その齟齬を何とかしていくよう務めなければ、自殺者もうつ病の人も増えこそすれ減りはしないのではないだろうか。
(概要)
第一章でうつになる人や自殺する人が増えている原因を考察し、以降ではそういった環境をどのようにして生きるかを提示する。具体的には、表題になっている「つらさをつらさとして受け止める」「弱音を吐くのも生きる技術」「ありのままの”今の自分”を受け入れる」といった内容である。そしてこれを元に「助け合い、弱音を吐きあう関係づくり」、言い換えれば「察してくれ」という独りよがりな領域を抜け出し、自分の弱さやつらさを他者とのコミュニケーション通してお互いに受け入れたり解消していくようにしよう、と結論している。
(感想)
読んで思ったのは、やはり自己を客体化することの重要性である(これに関しては「自己の統一性という欺瞞」などで触れている)。本書によれば、自殺する人には「~ねばならない」という観念の強い人が多いらしい。それは理想と現実のギャップに悩むがゆえなのだろうが、そういう人の多くは自己の規範を客観視できていないように思える。つまり、「なぜ私はそう思うのか」「それは本当に正しいのか」と考えられないのである(だからこそ「作品を『読む』ということ」で自分の生理的嫌悪感などと向き合え、ということを主張している)。よく日本社会は同質性が高いと言われるが、自己の規範に対する埋没化現象はその必然的帰結と言える。現代において特に問題なのは、そういう社会風潮と自己責任を称揚する風潮が無責任にも共存していることにあるのではないか?例えば女性の生き方。なるほど昔に比べれば人生の選択肢は増えたと思う。しかし、社会の変容などによって生まれた新しい選択肢へのニーズに応えるほどではないのではないか(まあ戦後の急激な変化を思えばそれも多少仕方ないと思うが)。その一方で、選んだ後は自己責任として処理されてしまう。また、「昔は選択肢なんてなかった。選べるだけマシだと思え」といった上の世代からの無理解な言い分もかなりの場合本人を追いつめる原因となっているだろう。
さて、筆者はそのような規範への埋没化によって、自己の(特に)負の感情が顧りみられないことが実は危険だと言っている。それは例えば、怒りを覚えたときに「そんな感情を持ってはいけない」と抑圧してしまうことだ。しかし、そうやって蓄積したものはやがて精神を蝕んでいく。そうならないために、筆者は負の感情を否定せず、さりとて飲み込まれないよう距離を取りながら認めてあげるようにすべきだと言うが、その意見には賛成である。というのも、「和を重んじる」という日本人への評価が正しいとすれば、「和を乱す」ことの多い自らの負の感情を日本人は否定しがちだと思われるからだ。ゆえに負の感情(行動)に対する無意識的な拒絶は予想以上に強いため(※)距離を取っての認識は容易ではないだろうが、それをやらないといつか暴走するか精神に変調をきたしてしまうだろう。
今の日本社会には、埋没できる環境が急速に失われているように思う(だから家、自分の部屋という最後の砦に引きこもる人が増えているのかもしれない)。そしてこの状態は、おそらくこれからも変わらないだろう。であるならば、とりあえず個々人は規範に埋没しないように意識しつつ、社会的にはカウンセリングや神経症などに対する偏見を取り払っていく必要があると思われる。とにかく、社会の動きに制度も個人も付いていけていない。その齟齬を何とかしていくよう務めなければ、自殺者もうつ病の人も増えこそすれ減りはしないのではないだろうか。
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