A goal of pop team epic

2018-05-02 12:22:40 | ポプテピピック

さて、ポプテピピックという稀代のクソアニメが伝説となって早一か月。すでにCMにも進出してエイサイハラマスコイ踊りは世を席巻。AC部は一挙にスターダムにのし上がらんとしている。言いかえればポプテピピックは一つの社会現象と化しているかの如くだが、それもまた当然だろう(なに?それは大袈裟すぎるわダボカスだと?さてはアンチだなオメー・・・)。

 

なぜか?巨大なデータベースの中、サンプリングで戯れる(しかない)我らの世界を各種パロディという形で表現したのが原作であった。そこをアニメ版では、声優リセマラという形でまさにアニメならではのデータベース消費を表現したのだが、その意味・効果は以下のように推測される。

1:
ただの表現形式ではなく、古川登志夫が演技論としても参考になると述べたように、同じキャラでこうも印象が変わるのか、という興味深さがある。これは「アドリブ多めで」という製作陣の「演技指導」とも無関係ではない。というのも、アドリブの妙は製作者サイドはともかく視聴者が知るのは困難かもしくは大分経ってからだが、「再放送」システムによってどのようなアドリブを入れたか、はたまた入れなかったかが比較的すぐにわかるからだ。

2:
誰が演じるのか気になるので興味が持続する(あるいは何だかんだで見てしまう)。

3:
大御所が演じていたため、その人の演じた有名キャラや吹替が印象として残っており、それをデータベースとしてネタがやりやすい。そういった仕掛けは、1・2と連動して作品の強度を高めて視聴者の興味をより引きやすくなるだけでなく、そもそも原作のエートスを極めて適切に継承したものでもあった。

4:
そもそもポプテピピックは可愛さ+凶暴さの組み合わせがおもしろいことと、膨大なネタの混淆にある。しかし一方で同じようなキレるテンションが違えば飽きられる危険性があるのだが、各回ごとに声優が違ってメインの二人の軸はぶれないながらも陰影が異なるため、そのようなマンネリズムを回避することができた。

 

発表されているプロデューサーのコメントなどを限りでは、始め15分枠でやろうとして、それを30分にしたために同じ内容で声優が違うという展開にしたそうだが、データベース消費をアニメでハイレベルにやろうとした場合に大御所声優の起用は非常に効果的なものであること、とはいえ予算の都合などを考えるとハードルの高い演出であること、の2点を踏まえると、「毎回声優が違う&15分しか演技の時間がない」という起用法は、始めから計算されたものだったのではないかと思わされるほどである(一応言っておくと、「必要は発明の母」という言葉があるように予算や日程が厳しい中で苦肉の策で編み出した表現方法が革新的であったり大いに受けたりするというケースは少なからず見られるため、これが製作サイドの言葉通りなのかは正直判断に迷うところである)。

 

これに加えて、ニコニコ動画に一週間無料放映した(第一話は今も無料で見られる)のも大きかったと思われる。周知のようにニコニコ動画は動画と同時にコメントが見えるサイトなわけだが、その組み合わせがくるとは!!?という感想から(有志の勝手なw)元ネタ考察・説明まで同時並行でストリーミングされるため、様々な点でこの作品を理解・消費するにあたってプラスに作用したのはタイムリーに見ていた筆者の目からも明らかであった。

 

もう少し詳細に言えば、様々な年代のデータベースが細切れになって叩き込まれているこの作品を視聴するにあたり、コメントの数々はまさにデータベース消費の様を可視化しただけでなく、それによって我々のアーカイブがより豊かになり、それがますますポプテピピックを深く楽しみ、消費できるという(マッチポンプ的)構造を成立させていたからだ(たとえば2000年代生まれの人が第一話のレイズナーや第四話のEarth Wind & Fireに反応するのは難しいが、しかし30~40代の人の動画コメントでその元ネタが知れる、といった具合。そしてこれらを見たら、関連動画として「海のトリトン」「宇宙のファンタジー」が出てきてアーカイブが拡大・強化されるという構造である。また、さらに探求する人であれば、レイズナーを手掛けた高橋良輔とトリトンを製作した富野由悠季が虫プロの同期であり、この二人の勧善懲悪的でない作風やその時代性・影響といったことにまで考察やそのアーカイブを拡大することであろう)。

 

以上のような点を指摘するだけでも、ポプテピピックという作品が時代の体現者であることは論を待たないが、アニメ化を通じてさらなる高みにまで上がり、まさに一つの「伝説」となったと言えるのではないだろうか(というより、砕け散った瓦礫の山とサンプリングで成り立っている現在において、物語や映像で特異なる存在としてその身を打ち立てたいと真に思うのならば、「魔法少女まどか☆マギガ」レベルの物語性や、「この世界の片隅に」クラスの透徹した世界観・演出力を持たなければ、それはただジャンクのラベルを張り替えただけに過ぎない。その現状を思わずにただドラマツルギーや論理性、絵柄という観点からポプテピピックを「クソアニメ」・「パクリアニメ」と揶揄しているのならば、実に片腹痛いことだ)。

 

なお、ポプテピピックの最終話は、完全に予想通りというか、ポプ子とピピ美のバディ感がテーマとして貫かれていた(これあるがゆえに、シニシズムに振り切れてない点も非常に癖のあるこの作品が広く受け容れられた理由だろう)。その真意は、先に述べたこの作品の需要環境と演出方法も併せて、EDにある「退屈な世界 これからも一緒だよ ずっとずっと 仲良しこよしのダーリンダーリン oh」を想起させるものであった。ただ、ああやっぱりそうか・・・って思ったところに実写での歌&ダンスを入れてくるあたりも(安易な感動モノっぽさを出さないという点で)さすがという感じである。

 

二期を期待する声もあるようだが、まあおそ松さんと同じ末路を辿ることは目に見えているので、「ハイクソ―!二度とやらんわこんなクソアニメ・・・」とばかりに製作陣が賢明な判断をするのを望むばかりである。

 

ま、やらかした時はやらかした時で二匹目のどじょうを狙おうとした作品の悲喜劇として、生温かい目で見守ることにしようかな(゚∀゚)アヒャ


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