フラグメント24:宗教関連について

2008-01-30 01:27:30 | フラグメント
この前の「宗教と思索:今日的思考の原点」の元になったフラグメント。


<西欧的?>
宗教と世間と自分。西欧的な部分が感じられるとしたら、むしろそこだろう。他の人と比べれば、はなっから世間は相対的なものだったのかもしれない(※)。しかし自分も信用してない。何度もくだらん思い込みが引っ繰り返されるのを経験しているから(※2)。


前回の竜馬の話で述べた内容から考えれば、この記述は誤りである。

※2
宗教、世間から距離を置いていると書けば、いかにも自分という基準こそ信頼に足ると考えているように受け取られるかもしれないが、それは間違いである。だいたい、そんな人間が冗談ででも自分を狂人と書くか、という話だwなお、自分さえ信頼していないという話は「自殺の可能性について」「思考の掛け金」の記事に繋がっている。


<教義と社会規範、そして理性>
宗教は、「何となく」しみ込まさせられる社会規範に比べると、明文化・規律化の傾向が強いため、疑問の余地が生まれやすい(殺すなかれ、憎むなかれ)。しかも私の場合、押しつけるのではなく理由を説明した上で納得させるという教育方針の中育ったので、ますますその傾向は強まったと言っていい。要するに、何となく規律に慣らされていくのが一般的な人間だとすれば、私は宗教と理由づけという相反するような要素が同居する中で成長したのであり、それが私の特殊性を形づくったのだと言えるだろう。


ちなみに、親の育て方は西欧を意識はしていないし、彼ら自身が西欧びいきというわけでもない。むしろ、どちらかと言えば西欧嫌いの気さえある。なお、竜馬の話などからある程度想像できるかもしれないが、家では時代劇を見ていることがしばしばであった。


<宗教か社会か、ではなく…>
宗教か社会かではない。宗教と社会、そして自己(合理的思考?)の三つが存在していた(信長にあるように、両方の基準を相対化している)。これは育て方が関係している。この二項対立ならぬ三者分立状態は、私が社会への信用を失った時に宗教の側へ行かず、むしろ社会にも宗教にも反する「狂気」を求めたことによく表れている。[どちらにも]埋没してない、第三の基準の模索。

観測したことのない「神」とやらを100%信じることは無理そうだ。存在するにせよ、それは特定の「神」理解、特定の宗教を信じることには繋がらない。各宗教は巨像を撫でる盲人の如しか、と思いつつ…


<宗教の話>
大学入試の小論文は「テレビ番組に見る生の称揚と死の忌避について」。あまりにおあつらえ向きだ。しかし悲しいかな、その時の私は自分自身がハエを絶滅させようとしている人たちと同じだとは気付いていなかった。世界よ滅びろ欺瞞が許せない
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新しいプリンと裏テレビジョン | トップ | なぜ「小フーガト短調」は好... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

フラグメント」カテゴリの最新記事