「善き人のためのソナタ」のラストでは、最も近しい者(味方)が自分を裏切り、最も遠い存在(監視する敵)が自分を守っていたという逆説的な状況に眩暈がしてくる。そこに、品性なき男が統一ドイツで観劇に勤しみ、自己犠牲の元に人を救わんとした男が(もちろんそれまで彼が行ってきた事は否定しようもないけれども)苦しい生活を強いられているという逆説などが重なり、このようなアノミーが統合ドイツ時に人々を襲ったのであろうかと戦慄にかられる。
ところで統一ドイツとなる前のシーンで暗転する時、「20年ずっと地下で郵送物を開封する作業がお前の仕事だ」「20年は長いぞ」と同僚に言われ、主人公が茫然とする場面が出てくる。視聴者は当然、この様子に女性を助けられなかった主人公の悲しみを重ね、強烈な無力感がのしかかってくるのを感じるであろう。私もそのような反応を示したのだが、一方で同僚の「Zwanzig Yahre」というセリフを聞いて思わず背筋がゾクゾクしてしまったことを告白しなければならない。
たとえば「ミハエル」と聞いても何も感じないし、「ミカエル」でもちょっと高貴な印象を抱くくらいだ。しかし「ミヒャエル」となるとなぜか背筋がゾクゾクして腰が浮き上がってしまうのである。それと同様に、スタインは凡庸で明らかにシュタインの方がゾクゾクくる。シュタイナーやベルンシュタイン、シュタインメッツがそうであるように(その他ブレットシュナイダーやシュタイエルマルクもそれに類する)。それとも似て、サクソンとザクセン、クラスメートとツィマーコリーゲンを比較した時、後者の方が強い響きを持っているように感じられたりする。
とはいえ、ドイツ語なら他より何でも印象的に感じるというわけではない。たとえばロレーヌとロートリンゲンを比較したときに、後者の方が印象に残るというこは必ずしもないのだ。そう考えてみた時、先の例と合わせて思い浮かぶのがヒンデンブルク、ハイデルベルク、バイエル、シュパツィーレン、ゲガンゲン、ゲゼルシャフトなどであることからすれば、「ガギグゲゴ」「ザジズゼゾ」「ダヂヅデド」「バビブベボ」といった破裂音、あるいは「シャ・シュ・ショ」「ヒャ・ヒュ・ヒョ」「ツァ・ツィ・ツ・ツェ・ツォ」といった摩擦音が頻出すること、およびそれに私が快感を覚える(!)ことが原因なのではないか、と予測される。私がドイツ語を学んだのはせいぜい二年程度で、仕事を始めてから(英語の叙想法でなぜ主語に関係なくwereを使うことになったに関連して)ドイツ語の話wäreになった時に「接続法第二式」すら出てこなかったレベルだが、もしも私がドイツ語の学習を続けてますますこの言葉を愛するようになっていたら一体どうなっていたのだろうか、と一抹の不安を覚えずにはいられない。
先日大学時代の友人の結婚式に参加した時、知人の一人が英会話学校に就職したと聞いて、私はそんな自分のありふれているのか珍奇なのかよくわからない嗜好を思い出した次第である。
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