「強迫的に集団で行動しようと思わないのを『孤独が好き』と定義するのなら、私はそういうタイプの人間と言えるだろう」という趣旨の記事を書いたのは、もう10年前くらいのことだろうか?一見すればわかる通り、これは完全に皮肉である。つまりは、他人と行動しないと不安でしょうがないという依存的人間への嘲笑で、「しがらみ」をライナスの毛布のようにして自縄自縛となっている連中を私は批判したものだ。
しかし最近では、ようやくというか、「ソロ社会」という言葉も出てきて単独行動というものに対する認知というか許容が広がってきているようだ。正直なところ、集団行動への圧力がないのなら、実りなき関係はただの「しがらみ」・「時間の無駄」でしかないのは当然のことだし、ましてやネットを中心として単独行動のキャパシティが広がっている現状ではなおさらである(とはいえネットでも、集合的に沸騰→炎上という別の集団主義的要素が見受けられるわけで、要は身近な人間に無理に合わせずネットの世界に同志を求めて群れるという具合に表れ方が変化しただけとも言える気がするが)。例えば人に聞くぐらいなら、ネットで調べた方がよいというケースが多々ある。それでも聞く時は、初対面の相手と距離を縮めたり、よく知らない相手と間を持たせるための毛づくろい的コミュニケーションか、あるいは相手が鳥瞰的かつ批判的で優れた視野を持つ人間であるかのどちらかでしかない(たとえばこのブログで登場する人物としては、ウエッキーがその一人だ)。である以上、率直なプレゼンテーションや相手と切磋琢磨するような議論(≠酔っ払い親父の与太話)の経験に乏しい日本に多いタイプの人間たちとは話していてもしばしば時間の無駄に終わるわけで、自然な成り行きに任せればソロ化が進むのは当然だと言えよう。そしておそらく、この傾向は人工知能の発達によってますます加速していくに違いない。
とはいえ、だ。先の「実りなき関係」の話に繋がるが、人との関係性は思わぬところで身を助けることもある。典型的なのは孤独死(とその回避)であり、またたとえば失職した際の再就職などもそれに当たる。あるいは地方で所得層が高くない「マイルドヤンキー」と呼ばれる層の人たちは、大勢で集まってバーベキューをやることで食費を抑えたりすることもあると聞く。何が言いたいかというと、associationつまり目的や実りを軸にした集団の必要性は、ソロ化が進んでいるからこそ認識もされてきているのである(年収が一定未満の場合は結婚してダブルインカムになった方が生活のサステナビリティは上がる、というのもその一例)。とはいえ、このようなマインドを広く共有していくためには、そもそも社会システムがどのように回っているのかを(ある程度は)知らなければ無理である。とするなら今後については、そのような集団の形成の仕方を個人の努力に任せることなく、学校教育などで促進していく動きが必要不可欠だ(その意味で精神主義的な人とのつながり、あるいは「やりがいの搾取」を促進するようなマインドを青少年に植え付けるのは将来に日本を破滅に導く非公共的な振る舞いであることを政府関係者や教育者たちは自覚すべきだろう)。
この時に、benefitを目的として人と繋がるのが不純だと感じる人がいるかもしれないが、それはフリーライダーの場合であって、associationは互助的な関係性を軸としている(今回のタイ旅行で珍しく友人と行ったのも、「現地人と直で向き合うことでパラダイムシフトする気がはなからなく、情報を調べてテンポよく観光ができればよいのであって、その場合一人だろうが二人だろうが変わらないし、むしろ情報源は多い方がいいと思ったから」という事情があったとか書くと、なんだかとても面倒くさくてイヤらしい人間に感じられるだろうなあ、てことは思いもするのだけれどもw)。なお、そのように認識を変える必要があるという意味でいささか挑発的な書き方をしたのが「『自己中心的』ということ」という記事である。個人主義と「孤人主義」、自立と孤立の区別がつかないメンタリティを時間は多少かかっても改善していくことがなければ、ソロ化は自由化と同時に日本社会を薄氷のようなものにならしめる(まあすでになりつつあるが)だけに終わるだろう。
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