阪井裕一郎『仲人の近代』:結婚、仲人、中間共同体

2024-03-29 11:45:42 | 歴史系
「冠婚葬祭は社会的行事である」という意見に疑問を持つ人はそう多くないと思われる。しかし一方で、「どのような意味で社会的なのか?」「それはどのように変化してきたのか?」についてすぐに答えられる人は少ないのではないか。
 
 
 
 
 
 
本動画は、土葬における野辺送りの場面を撮影したものである。これを見れば、葬儀とは単に参列するだけではなしに、共同作業(参画するもの)ですらあったことがわかる。まあこういった事例はあまりに遠い世界の話に感じられリアリティがないかもしれないが、それなら例えば、自分が小学4年生の時に大分で体験した葬儀での話を取り上げてみるのもよいだろう。すなわちそこでは、父方の親戚として参加したに過ぎない=普段は何らの関係性もない自分たちにでさえ、近所の人の作った朝餉が振舞われたわけだが、子ども心に「困った時はお互い様ってのはこういうことなんだな」と思ったものである。
 
 
ちなみにその「朝餉」が現在では店に依頼する仕出しへと変わり、さらに葬儀自体も家族葬やら直葬といったものが増加してきている。そしてこういった葬儀の変化の背景に、共同体のあり方や価値観の変質があることはそれほど違和感なく受け入れられるところだろう。
 
 
さて何度か言及してきた『仲人の近代』は、それと類似の視点で、仲人と婚礼、あるいは仲人と結婚観の変化を、共同体や価値観の変化から解き明かす内容となっている。その記述からは、以下のような要素が大まかに抽出できる。
 
〇江戸時代における若者仲間(若衆宿などが有名)を媒介にした夜這い文化
〇開国と近代化(欧米的価値観の流入)によるその否定
〇武士や豪農の媒酌人を通じた婚姻を「伝統」とする視点(実際はマイノリティ)
〇それに基づき家と家の結合にお墨付きを与える形態とし道徳的に奨励する言説
〇大正時代に噴出する家と家の結合という発想への批判(大正デモクラシーや個人化、モガなどを想起)
〇総力戦を目的とした富国強兵のために優生学が持て囃され、結婚に科学的根拠を与えるものとして媒酌人制度が再強化
〇「産めよ増やせよ」というスローガンだけでなく、結婚相談所などの公共事業化と隣組などによる全面化
〇家と家の結合が戦後否定されたのち、次なる結婚の媒介となったのは会社共同体
〇その理由は、「家族主義的経営」であり、夫側の上司が仲人を務め、女性は寿退社という風潮が生まれる
〇会社共同体的あり方は、バブル崩壊によって企業体力の減衰とグローバル経済の中の生き残りで否定
〇並行して個人主義化も進んだことで、会社や上司がそこに介入することはむしろハラスメントのリスクさえ惹起
〇少子化と過疎化の中で仲人の復活を奨励する地方もあるが、そもそも中間共同体が崩壊しているで焼け石に水
〇ではどのような形でかつて仲人が果たしたような役割を社会に甦らせるのが是なのか(問題提起)
 
 
こうして記述される変遷自体も興味深いが、この知見を元にすれば、今日の晩婚や非婚の必然性は容易に理解されるだろう。すなわち、婚姻を社会へ埋め込む役割を果たしてきた中間共同体は、若者仲間であれ、イエであれ、会社共同体であれ、もはや日本からはすでに消えているか、消失の最中だからだ(会社共同体とその変質については、以前紹介した宗教的帰属意識の他に1990年代半ばから始まる「作る会」的なナショナリズムとその広がりにも関係しうると考えているが、それは別の記事で取り上げたい)。そんな中、ただ旧来の価値観を称揚したり、ただ慌てて数字だけ作ろうとしても、上滑りするだけでほとんど何の効果もないのは火を見るより明らかだ。
 
 
いやいや、現在でも共同体の繋がりが緊密な地域は存在している!という反論もあるだろう。それ自体は間違っていない。ただそのような特性が強い地方であればあるほど、肝心の若者は都市部に出ていくので、そもそも婚姻を成立させるスタートから躓いているのだ。
 
 
では都市部はというと、中間共同体という「上げ底」はもはや死滅しているためシステムに頼るしかなく、それがマッチングアプリだったりするわけだ。しかしそういった仕組みは、せいぜいプロフィール程度の信用しか担保できないため、勢いスペック重視の風潮の中での競争にならざるをえない。そういう性質に経済不安や上昇婚志向の残存といった要素が加われば、一部の人間に人気が集中し、大半は売れ残るというのはむしろ必然と言える。というか、「優良物件」の多くはそもそもオープンな市場に出回る前に売却済で、市場に出回っているように見えるそれらは、既婚者やヤリ目などの地雷案件ですらあることも・・・というのが現状である(まあそういう訳だから、実態に合わせて妾文化を復活させたらええやんという意見も出てくる訳だが、一夫一妻制という欧米的な価値観の植え込みもあって、全く現実的ではないだろう)。
 
 
ことほどさように考えると、共同体崩壊が進み、共通前提も急速に減少し、自己責任論が幅を聞かせる今の日本社会において、かつてのような皆婚社会はもちろんのこと、結婚率や婚姻件数の回復すら、全く不可能事であるのは自明の理と言える(というか、「自己責任」と言いながら、同時に「社会の為に~せよ」と訴えることほど、矛盾に満ちた言説もない)。まあ「江戸時代回帰」のような議論が愚昧の極みなのと同じで、所与の条件を全く満たしていないのだから戻りようがない。江戸時代の回帰など、そもそも人・物・情報の移動が保証され、かつ第一次産業の人口もほとんどいないというのに、一体どうやって可能になると思っているのかその頭の構造を知りたいくらいである・・・
 
 
閑話休題。
そして婚外子率が10%を割る日本において、そのことは出生数回復の見込みが全くないことも同時に示しているのである。ただしこの問題は、韓国や中国が急速な少子化に苦しんでいることも踏まえ、例えば儒教社会と急速な近代化(欧米的価値観・制度の入龍)のねじれといった形で比較対照をしながらより広範に論じる必要があることも付言しておく。
 
 
ちなみに筆者は最後のところで仲人が果たしてきた役割を、単なる「伝統」の復活ではなく、孤立化が進む個人の媒介者として現代的に有効に機能させることはできないかと問うと本書を終えているが、現時点の私の結論は「不可能」である。というのも、現代の未婚率の上昇は、先にも触れたように経済的要因も多分にあるのであって、単に孤立化の問題(個人の問題)済む話ではないからだ。よしんば復活できることがあるとすれば、それは戦前日本がやろうとしたような全国的公共事業のレベルでの取り組みが必要であり、そうなると今度は個人の自由の抑圧・否定として大きな批判にさらされることは免れえないし、よって実現は不可能だろう。
 
 
その意味で言えば、今最も現実的な方策は、生身のパートナーと家族を成すことを理想として打ち出し続けるのではなく、そのオルタナティブとして、AIなどによるbotなど(電脳ペットなど)を用いて承認を満たしたり、孤独を回避するという方法であろう(ついでに言えば、消費の旺盛な先進国の人口減少は地球環境にとってはむしろプラスに働く可能性が高い、という点も追記しておきたい)。もちろん、このような発想はあまりに悲観主義的に映るかもしれないが、ではそれを否定して生身のパートナーとの関係性構築にあくまで固執するなら、それができない人間たちによるルサンチマンとその鬱積(インセルはその典型)をどう社会的に手当てするかぐらいは考えておく必要がある、と述べておこう。
 
 
ともあれ本書は、少子高齢化にただ右往左往するのでもなく、それを見て見ないフリをするのでもなく、その生じた背景と不可逆性をよく理解し、今直面している問題を深く考えるスタートラインに立てる(言い方は皮肉めいているが、「絶望を知るという希望がある」といった感じか)という意味で、大変重要な研究の書だということは強調しておきたい。
 
 
以上。
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