前回、「男は女に奢るべきか」という論争はなぜ不毛なものになるのかに触れたが、これを「社会現象」という一般化した視点で見ると、参考になるのは次の動画だったりする。
ここで述べているのは、全てを普遍的な「ルール」で処理すればOKという発想は社会的コストが大きい上にそれがそぐわない場面も様々あるので、「思いやり」の重要性を暗黙知じゃなく、理論立てて考えましょうということである。
昨今では、価値観の多様化・分断による共通前提の崩壊により、この「思いやり」の領域が通用しにくくなってきており、むしろそれを当然のようにふるまっていると、付け込まれていいようにカモられることになりかねない(次の記事で述べる「頂き女子」などが好例)。とはいえ、じゃあどうやって全然価値観の合わない他者と共生していくねんとなった場合に、「ルール」の設定が求められるわけである(その意味で言えば、作成者の提示する視点はとても重要である一方、「空気」や「忖度」にどっぷり浸かっている=熟議という共生の作法が特に未熟な日本という社会において、共通前提が崩壊し周囲が「ウチ」と「ソト」で言うところの「ソト」だらけになった状態において、他人が信用できず、それゆえやたらと「ルール」を求めそれに準拠しようとする輩が増えていくのは必然的な流れと言える)。
で、これを元に今回の「男は奢るべきか否か」の話に絡めて言うと、以下のようになる。
1.「奢るべき」というのは誰しも合意可能な普遍的ルールとして設定されてはいない(cf.憲法、法律、条令などとの差異)
2.言い換えれば、個人個人の関係性の中から出てくる「思いやり」の領域の問題である
3.しかしこの問題が、しばしば主語や場面設定が曖昧なまま、普遍的ルールであるかのように語られている
4.自明なルールであるかのように主張するから、突っ込み所満載で大きな反発が生まれる
5.いやあくまで個人間の「思いやり」の話をしているのであって、ルールだなんて主張したつもりはないと言うのなら、「港区女子」の件ではどうして録音したものを晒す=社会的制裁を匂わせるような発言が出てくるのかがおかしい。
6.つまり、そこに普遍的ルールからの逸脱が見られ、それは社会から糾弾されるものだしそうされるべきだから暴露という行動をしようとしたものと言える
もう少し解説すると、例えば4に関しては、「男性は女性に奢るべきか」に関するアンケート(統計データ)でYesと答えている女性が25%といった事実、あるいは先に述べた社会的・経済的ポジションにおいて、「男性>女性」という構図は(例えば昭和などに比べれば)もはや自明ではない、といった反論が可能である。
また男性に奢ってほしい理由として、深田えいみがかつて述べたような「女性がデートの準備にかけるコスト」についても、「だったら男が車を出していたらどうなるのか?」「男はデートに向けて服装などのコストを全くかけてないとでも?」「女性の個人差を無視」「デートでない=別に女性がその場にくるために準備のコストを払っているわけではない状況はどうなるのか?」etc...と、別に揚げ足取りでなくてもいくらでも突っ込みができる。
まあ要するに、相手の都合を無視して自己都合を主張しているだけな上に、主語がデカすぎる(曖昧すぎる)んで雑な「ルール」過ぎて異議申し立てが出てきて当然、という話になるわけである。
いやいや単に個人間の「思いやり」の問題なんだったら、それこそ一般的な「ルール」であるかのように話を展開するなって話になるわけで、こういう問題設定の稚拙さと、社会の多様化・分断への無理解が「男は女に奢るべきか」論争を極めて不毛なものにしていると言える。
というわけで、もうちょっとだけ続くんじゃ・・・
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