UNTITLED

2013-09-30 18:04:34 | 本関係

最近岡崎京子の「UNTITLED」を繰り返し読んでいる。まだ明確に言葉にできないが、様々引っかかるところが多いのだ。

 

たとえば「万事快調」の第一話。主人公は言う。

うそだ
そんなのうそだ
みんなじぶんのためなの
いいわけしているの何もしないでいるのを
毎日毎日のことで忙しくて
このままでいいのかしら?どうしたらいいの?そういうことを
家族のせいにしてごまかしているの
あきらめたふりをして母親をうらんだりして
さみしいとか友人がいないとか恋人がいないとか
そういうことを何もしないで28年間生きてしまったことを

様々なしがらみを「言い訳」にして、日々は過ぎていく。それに対するかすかな、しかし確かな葛藤。

 

またその第二話では、自分が「Iしてる」だけなのにも気づかず自らの気持ちをわかってくれないと言う男が出てくる。しかし、(あえて言い切るなら)そもそも自分がどれほど相手を好きかということと、相手が自分を好きになってくれるかどうかということの間には、何ら因果関係がない。それを無邪気に期待してしまうあたり、他人と意識が癒着してしまっていると言えるが、別言すればそれは、断念を知らざる者の滑稽さをよく描きだしたものだと言える(なお、そうであることを認識していればその「痛み」から免れうるだとか「痛み」を感じなくなる、というのはまた別の話だ)。

 

とはいえ、「断念・葛藤することが正しい」など前提化するのはとんでもない間違いだ。たとえば葛藤に関して言うならば、大正時代に阿部次郎が著した「三太郎の日記」は、逡巡という名の円環構造の中にいること自体が(肯定すべき)特権であり、また喜びであるように描いているが、茶番のごとき滑稽さとある種のグロテスクさは、見る者にとって明らかであろう。この感覚は半ば「こころ」の先生について思ったことにも繋がるし、またたとえば「君が望む永遠」の主人公について考える際に留意すべき点でもある。

 

あるいはキム・ギドクの「受取人不明」で描かれるような、上から塗りつぶされるように起こる悲劇や復讐の連鎖は、そういったものに押し留まったり、意味付することすらある種の「贅沢」であるかのような印象を与える。そのことは、「ぼくらの」の原作に特徴的な乾いた描写などを思わせる。それらの死を「特攻」的なものとして消費する感動乞食どもの浅ましさには全く吐き気すら覚えるところである・・・

 

などと様々益体もない考えが広がっていき収集がつかなくなりそうになっている。いずれきちんとまとめた形で記事にできれば、と思う。


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