今回は7/23~8/1のものですが、最初の記事にある「が~でん」(去年やっていた四人の共同ブログ)とか懐かしいですな。ちなみに今だから言えるが、初期を除いてガーデンでは全くやる気が出なかった。その理由は二つある。
一つはアクセス数が少なかったことで、実に分担している四人以外ほとんど読んでいないという状況(笑)だった。それなら内々でメールをすればいいし、そもそも時間かけてまで記事を書いてもなあ…とまあそんな感じで(モノにもよるが、「ひぐらし~メディアミックスで失ったもの~」などは書くのに十時間以上かかっている。それも見る人が一定数いるからだ)。ちなみに、この話をするのはブログのアクセス数を表示するようになったからである。もし表示しないでアクセス数が少ないので…とか書いたら、自分を大きく見せようとしとる、とかあらぬ疑いをかけられるかもしれんからねえwついでに言っておけば、トータルのアクセス数を表示しないのは、それが操作可能なものだから。そのまま表示すると、テンプレートを変えてからのものになるため不正確な数字になるし、かと言って適当に数値をいじったのを表示すれば、痛くもない腹を探られそうだwだから、日々のアクセス数からだいたいこんなもんかと推測するもいれば、そんなもんは全く気にしない人もいる…まあそれでいいんじゃないのん?というわけ。
話を戻そう。
もう一つの理由は、リンクの貼りにくさである。本来的にはメンバーの記事にリンクを貼ったり引用したりという行為が連鎖していく…というのが共同でブログをやる意味の一つだろうが、てんでバラバラの話題を扱っている上(個人的な感覚として)接続しにくい文体が多く、結局は自分の記事でも自分のブログにリンク貼ったりしている状況…だったら自分のブログでやればよくね?このブログでも色々な話題を扱っているので横に繋げる作業は「解釈の多様性」でも書いたようにいくらでもできるしなあ…とまあそんな具合で。
<が~でん>
ユーノ以外は小説でもかまわない(単なる読み物)。しかしユーノは、ゲームでないと成立しない。選ぶこと→ADVにもある。しかしそれは世界観を投影してはいない。ユーノは攻略性もある。屍の上に成果は築かれる。その事実を知ることが、真の偉大さを理解するのに不可欠。また時代の認識方法(エピステーメーも見えてくる)、野口[英世]を称揚する精神性は何か?知識と道徳性が共存するとは限らない。にもかかわらず嘲笑う。生い立ち
<明、清>
奴隷になりたい、はいない。嫌なものだとわかっているからだ。ANESSA.二項対立的理解などの認識や思考の枠組みそのものを問う。具体的には境界線を曖昧にする(解釈の二重性)。自分がいかなるものに縛られているかわからない人間が、自らをそれから解放することなどできるのだろうか?普通を思考の際どれだけ使っているか。そんなに否定するもんじゃね。普通があるから差異に目が行くのも事実。高校の時はお笑いがわからなかった。その理由の一つは、自分のなかに基軸が存在しなかったからだ。外すから面白い。外すべきものがなければ単に
<「家族計画」から始まった> 「始まりとしての「家族計画」」
「情念」のきっかけとなった重要なゲームだが、感動も感心もした記憶がない。じゃあ笑い?それも違うなあ。というわけで原因がわからず、放置状態になってた。昨日久しぶりにAirをやった後で色々考えていたら、その原因が怒りだったことに気付いた。当時の俺というのは、嘲笑主義の関係もあってイライラやうんざりはしても怒りはなかった。しかし、準の母親とか末梨の家族とかには本気に近いレベルでキレた記憶がある。だからこそ中国のあれに首を傾げつつもエンドがそれなりに納得いった。ある意味で「感情の復活」を告げる狼煙だった→情念
<家族計画から>
ユーノは哲学的だが理解不難。さらに、あまり理解できなくても十分楽しめ、その楽しんだ軌跡が哲学を体現。その意味で話の構造そのものが根本にある君望や沙耶の唄は決して辿り着けない…などあり。家族計画だけが理由不明。感動?屋根から(絶望という奈落の底へ?)落ちそうな末梨の叫びなどがおそらく感動を呼ぶことは理解できるがそこまで。ギャグは確かにおもしろいが、おっさんの豹変に引くなど非決定打。構造への感心?むしろ中国マフィアの介入あたりを含めてむしろ首を傾げてた気がする。家族の希求が非日常と交錯することでリアリティが失われたと感じたか?
一つはアクセス数が少なかったことで、実に分担している四人以外ほとんど読んでいないという状況(笑)だった。それなら内々でメールをすればいいし、そもそも時間かけてまで記事を書いてもなあ…とまあそんな感じで(モノにもよるが、「ひぐらし~メディアミックスで失ったもの~」などは書くのに十時間以上かかっている。それも見る人が一定数いるからだ)。ちなみに、この話をするのはブログのアクセス数を表示するようになったからである。もし表示しないでアクセス数が少ないので…とか書いたら、自分を大きく見せようとしとる、とかあらぬ疑いをかけられるかもしれんからねえwついでに言っておけば、トータルのアクセス数を表示しないのは、それが操作可能なものだから。そのまま表示すると、テンプレートを変えてからのものになるため不正確な数字になるし、かと言って適当に数値をいじったのを表示すれば、痛くもない腹を探られそうだwだから、日々のアクセス数からだいたいこんなもんかと推測するもいれば、そんなもんは全く気にしない人もいる…まあそれでいいんじゃないのん?というわけ。
話を戻そう。
もう一つの理由は、リンクの貼りにくさである。本来的にはメンバーの記事にリンクを貼ったり引用したりという行為が連鎖していく…というのが共同でブログをやる意味の一つだろうが、てんでバラバラの話題を扱っている上(個人的な感覚として)接続しにくい文体が多く、結局は自分の記事でも自分のブログにリンク貼ったりしている状況…だったら自分のブログでやればよくね?このブログでも色々な話題を扱っているので横に繋げる作業は「解釈の多様性」でも書いたようにいくらでもできるしなあ…とまあそんな具合で。
<が~でん>
ユーノ以外は小説でもかまわない(単なる読み物)。しかしユーノは、ゲームでないと成立しない。選ぶこと→ADVにもある。しかしそれは世界観を投影してはいない。ユーノは攻略性もある。屍の上に成果は築かれる。その事実を知ることが、真の偉大さを理解するのに不可欠。また時代の認識方法(エピステーメーも見えてくる)、野口[英世]を称揚する精神性は何か?知識と道徳性が共存するとは限らない。にもかかわらず嘲笑う。生い立ち
<明、清>
奴隷になりたい、はいない。嫌なものだとわかっているからだ。ANESSA.二項対立的理解などの認識や思考の枠組みそのものを問う。具体的には境界線を曖昧にする(解釈の二重性)。自分がいかなるものに縛られているかわからない人間が、自らをそれから解放することなどできるのだろうか?普通を思考の際どれだけ使っているか。そんなに否定するもんじゃね。普通があるから差異に目が行くのも事実。高校の時はお笑いがわからなかった。その理由の一つは、自分のなかに基軸が存在しなかったからだ。外すから面白い。外すべきものがなければ単に
<「家族計画」から始まった> 「始まりとしての「家族計画」」
「情念」のきっかけとなった重要なゲームだが、感動も感心もした記憶がない。じゃあ笑い?それも違うなあ。というわけで原因がわからず、放置状態になってた。昨日久しぶりにAirをやった後で色々考えていたら、その原因が怒りだったことに気付いた。当時の俺というのは、嘲笑主義の関係もあってイライラやうんざりはしても怒りはなかった。しかし、準の母親とか末梨の家族とかには本気に近いレベルでキレた記憶がある。だからこそ中国のあれに首を傾げつつもエンドがそれなりに納得いった。ある意味で「感情の復活」を告げる狼煙だった→情念
<家族計画から>
ユーノは哲学的だが理解不難。さらに、あまり理解できなくても十分楽しめ、その楽しんだ軌跡が哲学を体現。その意味で話の構造そのものが根本にある君望や沙耶の唄は決して辿り着けない…などあり。家族計画だけが理由不明。感動?屋根から(絶望という奈落の底へ?)落ちそうな末梨の叫びなどがおそらく感動を呼ぶことは理解できるがそこまで。ギャグは確かにおもしろいが、おっさんの豹変に引くなど非決定打。構造への感心?むしろ中国マフィアの介入あたりを含めてむしろ首を傾げてた気がする。家族の希求が非日常と交錯することでリアリティが失われたと感じたか?
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